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古い上着を脱ぎ捨てるように学ぶ

「さあ、このことについて考えて書いてみてください」と言われて打ち込んだ文字をポン!とエンターキーにのせて送り出す。

ところがこれまでは気軽に送れた文字が、今回の授業では送れない。チャットに書きこんだ文字の塊がそのまま手元に残った。ふと、今いる場がとてつもなく広い世界だということに気づいて怖気づいたのだ。



文字と表現が一体になる

前に進めるようになるかもしれない、そんな期待があって脚本家の勉強会に参加した。

その勉強会で先生にイギリスの舞台映画を観て!と勧められ、出かけていった映画館で動けなくなった。

とたんに言葉に体ごと引きずり込まれてしまったのだ。

小さな舞台で、演者たちの言葉は、縦に、横に、斜めに、上下に駆け巡った。その言葉を夢中で追いかけるうちに、幾重にも重ねられた時間と空間の中に引きずり込まれ、わたしは彼らの創り上げた世界に迷い込んだ。



ふと気づく

確か以前、同じようなことがあった。

学習塾の講師で、先生と呼ばれていたわたしが大学に入り学生になると、わたしの世界は軽くひっくり返ってしまった。どこに行っても、まるで調子がでなかった。

そんな中、少しだけ居心地がよかったのが、18世紀のフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーを読むサブゼミだった。

それは確か、ルソーが小さな島の統治プランを任されていた 「ポーランド統治論」の回。

ふと、TVで目にしたドキュメンタリー番組が頭をよぎった。若い日本女性が小さな国の法律を創っていた。他国の法律を創る若者がいる、そのことにわたしは驚いた。

その映像と小さな島の統治プランを任されたルソーとが重なり、わたしは口を開いた。

すると、誰かが、「法律は他の国の人が創れるようなものではないのかもしれません」と口にした。それから、「それはその国を知り、その国を生きる人が創るものじゃないでしょうか」と別な誰かも口を開いた。

ほんのわずかの間に交された言葉。

ところが、そこでいきなり、わたしは頭を強く打たれた、そんな感覚にみまわれた。

”法律は誰かが創り、わたしはそれに従う”、いきなりわたしは、ついさっきまでそこにいた過去の自分と鉢合わせした。

”法律は偉い人のもの”、そんな調子で生きてきた自分。そんな過去の自分の姿がそこにあった。



上書きして、そして得て


人はどうして学ぶのだろう。
なぜ大人が学ばなきゃいけないんだろう。

それは自分を支えている体験や経験をぶち壊すためなのかもしれない。

学ぶことで、大切だと思っていたものがそれはそれは小さなものだったと気が付くことがある。

学ぶことで、大切だったものを手放し、新しいものを手に入れることがある。

その過程で自分に向かって飛んでくるのが”わかる”という感覚。それが飛んできた瞬間、”わかっていだはずの自分”が形もなく消え去る。

だから”経験”と”学び”は相性がいいのだろう。


おわりに

新しい学びはいい。

古い自分と鉢合わせして、そのことがちょっぴり恥ずかしくて、けれどそこからまた進んでいける。

ちょっとしたきっかけで加えてもらった脚本の勉強会。そこでわたしはまた新しい自分に出会えた。


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