【介護】それは価値観の違いなのです
今朝、ドアを開けて、新聞を取に行くと、郵便受けの上に母の小さなポーチが置いてあった。そのポーチから玄関用のドア鍵がピンとはみ出して、朝の光に輝いていた。
そのポーチを目にした時、数分前の母の姿がまざまざと目に浮かんだ。母は鍵を忘れたわけじゃない。ほんの数十グラムの重さの小さなポーチを、わざわざそこへ置いて出かけたのだ。
母にとって鍵は、ドアを開けるためだけのものなのだ。
帰ったらまたドアを開ける。だから小さなポーチからそのカギは使った状態ではみ出していた。
そして、母はゆっくりとシルバーカーを押してほんの数十メートルの朝の散歩に出かけたのだろう。
わたしたち家族と母は価値観が違う。
わたしはこんな時、数年間暮らした香港を思い出す。
暮らしはじめた頃、家の近くの市場では小銭を投げて返された。中華料理屋で食事をすると、ガチャガチャと食器を鳴らして持ち運ぶ人がいた。
客は客で、話しながら白いテーブルクロスにボールペンで何やら書くし、時々わたしの手元に巡ってくる香港紙幣には、手書きの計算式がボールペンで書き込んであった。どこにでも、なんにでも書く。
子どもを公園で遊ばせていると、高齢者に手を引かれる幼子たちのお尻に穴が開いていた。どうやって使うのかはついぞ見たことが無かったけれど、恐らく素早く用が足せるデザイン服なのだ。
所変われば品かわる、だ。
朝食の時、鍵の話しを母にした。すると、
「あら、ごめんなさいね」
と母がいう。
そうじゃなのだ。それでは、また同じことをするに決まっている。体に刻み込まれた習慣というものは、いくら繰り返し伝えても体の入り口で跳ね返される。
母は80年以上暮らした田舎で、旅行の時ですら、子どもたちに用があっては、と鍵をかけずに出かけていたのだ。入れないと困るからねと。
だから、またいつか、母は、
「あら、ごめんなさいね」
というに決まっている。
これが価値観の違いなのだ。そして、きっと母は、あらあらこの子は神経質なところがあるわね、困ったものね、なんて神妙な顔をしながら思っているに違いない。
それでも、諦めずわたしは鍵のことを朝食時、角度を変えて、あれやこれやと母につたえてみた。それでも、なにを言っても、
「きょうはうっかりしてたの」
なんて言う。
駄目だ。それじゃ、わたしが留守の時、母は玄関先に鍵を置いたまま外出しちゃうだろう。
「じゃあね、郵便受けにかあさんの貯金通帳置いていける?」
ここで母がピンときた顔をした。
これで決まりだ!
よかった。母にぴったりの例題が見つかった。そう、鍵だと誰も来ないような気がするけれど、通帳だと誰かがやってきそうな気がするのだろう。しめしめ。
おかしなものだ。
こんな時は、ところ変われど品変わらずを捜すに限る。
価値観の違いでわき起こる違和感を、相手に伝えるのは本当に骨が折れる。これは異文化交流だと思った方が絶対にいい。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※いつもお読みくださりありがとうございます。
※スタエフでもお話ししています。
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