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寒い日、歩きながら語った「真言」


昼過ぎから外出した。思った以上に外は寒い。一時間ほど歩いたろうか。

公園には賑やかに飛んだり跳ねたりする子どもたちの姿があって、それから一人黙々とジョギングする人にも何度もすれ違った。

散歩はいい。

特に寒い日の散歩は気持ちいい。

スマホも触らず、本も読まず、ただ遠い空を眺めながら静かに土を踏み締める。

忙しすぎた週末はこんなふうに微調整したい。


ただおしゃべりにも時に熱が入る。

先日たまたま真言事典とめぐりあった。

わたしはきっと密教が気になっているのだと思う。けれどちゃんと調べたこともなければ誰かに話を聞いたこともない。

昨年末に京都に日帰りしたとき、4カ所だけ名所めぐりをしたけれど、最初に東寺に行った。理由は駅から近かったから。ただ目にした観智院の虚空像菩薩様が心に残った。

そんなふうに時々真言と出会う。

その本の中に「仏の持ち物」という紹介ページがあって、そこに我が家に置いてある三鈷杵のイラストが描かれていた。その三鈷杵とは、トップ画面の仏さまの手の中にある小さな金属のこと。我が家のそれは、もう何年も前にお坊さんに占いをして頂いた時に手渡されたお守りのはずだった。けれどあれはお守りではなく仏様の持ち物だったのかと今更ながら気づいて驚いた。

確かわたしが真言と初めて出会ったのは江の島の寺にカタカナ書きの張り紙が風に揺れていた時。どうしてカタカナなんだろうと思った。そのことを今でもはっきりと覚えている。

この本によれば、釈迦が仏教をはじめるよりも前から「真言」は存在していたそうだ。そう、バラモン教の時代。

カタカナなのはサンスクリット語だから。そしてこの真言はマントラ。マントラとは神秘的な力を有する呪術的な言葉だそうだ。古代インドでこのマントラが呪文のように唱えられていたという。

このマントラを日本に持ち帰ったのが空海。それは9世紀の頃だ。けれど実は6世紀に一度真言は日本に入ってきていると書かれていた。曽我氏の頃の話。

わたしは初めてこのマントラを音で聞いた時に光を感じた。それが光明真言。なるほど光ではないか。後で知るのだけれど、真言を唱えると苦しみや悩みが取り除かれるのだという。修行僧でもない自分が口にしてもいいのだろうかと思っていたけれど、この本には古代インドでは暮らしの中に真言があった、そして日本でも真言は普通の暮らしにあると書かれていた。

意味のわからない言葉の繰り返しが音楽のように耳に入った時、理屈抜きに音が自分の中に溶け込んだ。あゝ、感じたままでよかったんだなと思えた。

たまたま目に入ったこの本、きょうは散歩の途中、マントラから京都の東寺にあった曼陀羅へと話が広がった。

まだまだ知らないことばかり。そこもまた楽しい。


街中で目にする烏はとても大きいけれど、枯葉のなかを集団であるく烏たちはスマートだ。立ち入り禁止区画が多いこの公園では、動物たちも安心して餌をさがせるのだろうか。

街中で餌をあさる烏は怖くなるほど巨大だ。きっとジャンクフードに慣れちゃったのかもしれない。公園のカラスは奇麗だ。

今年の冬はとても寒い。

体も少し悲鳴をあげたりするけれど、それでもこんな日の空が好きだ。

すっかり葉を落とした木々さえも遠くに広がる空の色をおすそ分けしてもらっている。


参考図書
『唱えればかなう真言事典』中野展子 2019 国書刊行会


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※今日はスタエフでもお話しています。

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