見出し画像

カポーン♨︎

カポーンと洗面器を置く音が響く。テレビの騒音にまじって、脱衣所から常連のお爺ちゃんお婆ちゃん達の喋り声が漏れてくる。
 
清子はこの春から近所の銭湯で働いている。番台での仕事がほとんどで、お湯を沸かしたり浴場を清掃したりするのはこの銭湯では男性陣の仕事だ。
 これまで女性ばかりいる仕事場にいた清子はまだ慣れない。なにせ今まで天井の蛍光灯の取り換えや重い荷物の運び出しなど、何から何まで女性で賄っていたのだ。その中では「気が付いた人がやる」という暗黙のルールが出来ていた。

そうなると、なんだかいつも同じ人が同じ作業をするようになってしまい、たまたまその時に「気が付く」人が不利になってしまう。中途採用でやっと潜り込んだ会社だ。上司や先輩にあれもこれもさせる訳にはいかない。気を遣っている訳ではなく、実際、入社時期が一番若い清子が動くまで誰も動かない。結局、人にやらせるのが下手なペーペーの清子がほとんどやることになり、疲れ果ててすぐに辞めてしまった。

お爺ちゃんお婆ちゃんたちはとても穏やかだ。お風呂に入りに来ているからかもしれない。疲れてどんよりした顔をして入って来た人が、頬を赤らめてすっきりとした様子で出ていくのを見るのが、このところ清子の楽しみになっている。

この辺りは今は廃れてしまったが、昔はちょっとした漁師町であった。そのせいかサッパリとした気質の人が多い。これまでの「女の世界」とは違って、ビッグスマイルで話しかても相手は驚かない。

「お風呂に入っているときのように、素の自分でいられるなぁ」

そんな働き方ができる仕事場は初めてだった。ただ一つ、妙なお爺さんの存在が無ければ・・・。

「ねぇねぇ。今度どっかご飯食べに行こうよ~。美味しいお店知ってるからさー!」

今日もまた、例のお爺さんがやってきた。毎日ではないが、週に2、3日は来ている。清子は特に何にもしていないのに妙に気に入られてしまい、やたらと食事に誘ってくる。正直なところ、こういうのを笑顔で上手くあしらうのが苦手だ。年配の男性特有のなぜか自信満々なところや顔全体がしわくちゃな見た目、歯が少なくネチョネチョとした聞き取りづらい話し声、誘い文句なのに、耳が遠いせいで浴室にまで聞こえているのではないかというくらい声7が大きいことなど、苦手要素が満載だった。

 ”お爺ちゃんには悪いけれど、なんとか上手く話を流そう”
引きつった頬がバレないよう、気をつけながら笑顔を作る。

「そう!そのいつもニコニコしている笑顔がいいんだよー!なんでいつもニコニコしているの?」と、もともとしわだらけの顔をさらに歪めてお爺さんは言った。

「えー⁉︎そんなに私ニコニコしてますかぁ~?自分じゃそんなつもりはないんですけど~。」本当に清子にそんなつもりはない。

「ニコニコしてるじゃない!いや実はね・・・大昔にひどいことをしちゃった女の人にそっくりなんだよー。あの頃は若かったというか・・・それでもいいやと思っちゃったんだよね・・・。」

このお爺さんはその女性に一体何をしたのかしら⁉︎と疑問が湧いたところで、「じゃ!お風呂入ってくる!」と元気に男湯へ消えてしまった。

♨♨♨

清子が番台の仕事をしている銭湯の近くには、船着き場がある。
山奥から海に向かって悠々と流れてくる大きな川のどん詰まり、川幅が広く、遠く対岸の工場地帯の景色がなければ海かと見まごうような場所だ。

河口近くなればなるほど底は深くなっており、少し上流の住宅地のエリアでは数年に一度、忘れたころに自殺者が現れニュースになることがある。

レジャーで釣りをする人向けの小さ目の漁船が多く、週末の午後になると朝出港した船が次々と帰ってくる。その風景はまるでどこか片田舎の海辺の町に来たようで、東京にいながら旅情気分が味わえる。
昔は漁師たちが漁の後、冷えた体を温めに銭湯に来ていたそうだ。

清子は出勤前の昼間、暖かな日差しを浴びて、この風景を見るのが大好きだった。

隣町に住んでいる清子だが、銭湯で働き始まるまでこの町に来たことはなかった。
清子の住む隣町には駅前に延々と続く商店街があり、野菜や魚、お総菜など、ほかに比べて安く手に入れることができる。銭湯のある町には特に大きなスーパーなどがあるわけではないので、これまであまり来る機会はなかった。ただ、小さな町で昔から住んでいる人たちが多く、村のようだという噂話だけは耳に入ってはいた。

船着き場の堤防に腰掛けて、ひとしきり何も考えずぼーっとした後、銭湯へ出勤した。

♨♨♨

その日は釣り帰りに初めて立ち寄るというお客が多く、クーラーボックスやら釣り竿やら、預かった荷物でロビーがいっぱいになった。

初めてのお客さんが来ると、よく来る常連さんとは全く違う話ができるので、それはそれで楽しい。銭湯に入るのが初めての人がいる時は特に。

「これから釣った魚をさばいて食べさせる店に移動する」と、聞いてもないのに自ら教えてくるテンション高めの釣りグループの人たちは、銭湯自体が珍しかったようで、帰り際にのれんの前で記念撮影をしていった。

”釣りをして銭湯に入って・・・初めて尽くしな休日で楽しそうだな、あの人たち”

楽しい気分をおすそ分けしてもらって、ウキウキがうつった清子は、彼らが去った後のロビーを鼻歌を歌いながら片づけた。

すると、

「おっ!鼻歌なんか歌っちゃって、余裕しゃくしゃくだね~!」

背を向けた出入口の方から、聞き覚えのあるふがふがとした声が聞こえた。あのお爺さんだ。
清子は「ふぅ」とため息をつきたくなる気持ちを喉元で抑えて振り返った。

「あら、こんばんは!
今日は初めて銭湯へ来るお客さんが多くて。私も銭湯に初めて入った時の楽しさを思い出していたところなんです。」

と、当たり障りなく答える。

ロビーのソファに荷物を置きながら、
「ふーん。あ!そういえば昼間土手にいたでしょ⁈ 駅前から帰るときに自転車で通りがかって、どっかで見たことある後ろ姿だなーと思ったんだよねー。ね!いたでしょ⁈」と、矢継ぎ早に言う。

”土手でぼんやりしていた姿を見られていたのか…。よりによってこのお爺さんに…”

自分だけの秘密の大切な時間を汚されたように感じて、なんだか反抗心が芽生えて、「えー。いませんでしたよー。人違いですよぉ。」とごまかした。

「あ。そーお⁈ じゃ、見間違いかな?」と首を傾げつつ、冷蔵庫から牛乳を2本取り出し、1本を番台の上にわざとらしくどんと置いた。

「はい。1本どうぞ!」

他人からおごられたり、物をもらったりすることに慣れていない清子はびっくりして、「えっ!いいですよぉ。いいですよぉ。」と、遠慮を繰り返したが、「いいから!よく動いて働いてくれてるから!気持ちだから!」と、結局、牛乳を押し付けるようにして脱衣所へ入って行ってしまった。

”あーあ。おごられちゃったなー”

食事に誘われて以来、お爺さんに対して警戒心が大きくなっていたところでおごられ、なんとなく借りができたような気分になった。
ちょっとだけ後悔しつつも、そろそろ浴室へ入ったであろう頃を見計らって、ぐびぐびっと一気に牛乳を飲み干した。

#創作大賞2022


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?