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「多様性」の教室

中学校に入学した時、「なんて多様性のある教室なんだ」と思った。


学年の過半数が、海外経験がある人という環境だったので、その時初めて、自分が知らない世界を知っている人に囲まれるという経験をした。



どこどこに住んでいた⚪︎⚪︎ちゃん、

どこどこ人のお母さんがいる⚪︎⚪︎くん、

どこどこ生まれの⚪︎⚪︎さん。


クラスメートにゆかりのある国だけで、世界地図が描けるんじゃないかと思った。


「多文化共生」「異文化理解」そんな言葉がとても身近にある環境。

みんな、中学校に入るまでの段階でたくさんの経験をしていて、ごく一般的な家庭で育った私からすれば、皆んなが輝いて見えた。


授業が始まると、ますますそう感じた。

英語の授業で周りの友達の発音を聞くと、それまで自分がCDでしか聞いたことのないような、綺麗な発音で英語を話し始める。


純日本人の家庭に生まれ、海外経験も皆無な自分は、この集団の中で無個性だ。

そう感じた。



でも、そんな多様なバックグラウンドを持つクラスメートたちと過ごしているうちに、あることに気がついた。



帰国子女「なのに」英語が話せない子、

親が外国人「なのに」親の母国には渡航したことがない子、

見た目は日本人「なのに」多言語を操る子。


私が入学当初想像していた、ステレオタイプ通りの「多様性」は、すぐに裏切られた。



6年間を過ごすうち、どこどこに住んでいた⚪︎⚪︎ちゃん、だとか、どこどこ人のお母さんがいる⚪︎⚪︎くん、というレッテルは、全く不要なものになっていった。


なぜなら、渡航歴や、国籍は、その人の一面のほんの数平方ミリメートルを切り取っただけに過ぎない言葉だということに気がついたからだった。


1人1人が、言葉で描写できない、「⚪︎⚪︎さん」という存在になっていくのが、分かった。



卒業する時には、クラスメート全員が「⚪︎⚪︎さん」という存在になった。



これこそ、本当の多様性だと思った。


多様性とは、異なるカテゴリーの人が共存している状態ではない。

1人1人が、「他の誰でもない私」になることが出来ている状態だ。そう思った。


自分が担当する教室は、多様性溢れる教室にしたい。

1人1人が、自分を、自分だけの言葉で語ることができる、そんな教室に。

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