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映画『流浪の月』感想〜コンプレックスを一笑に付してくれた人はいただろうか〜

はじめに

こんにちは、Umiです!

先日5/13に公開された

『流浪の月』を見に行って参りました!

今日はそれを見て思ったことを書きます。

ズバリ言うと、

この映画、問題作!

もう、もやもやのもや。
なのに、
人間のどうしようもなさから目が離せない。
そして、
どうしようもなさを、
『流浪の月』
と抽象しているところに美しさを感じてしまう。
そんな自分もどうしようもないなーと、
思わされる作品でした。笑

シンプルに言うと、
通り過ぎ厳禁!!

原作は本屋大賞受賞作で、
とても話題になった作品です。
そして、
誰が撮ってて、
誰が出演しててという話も
とても盛り上がる内容です。
が、
ここでは取り上げません。

今日は、
一緒に行った友人が
この作品の本質をついたことを言った気がしたのでそれを取り上げたいと思います。

この映画を見た人のただの
主観的感想です。
気を悪くされる方いたらごめんなさい。

あらすじ

悪循環な人々

ここからネタバレ含む。

主要登場人物、

みんな、

非常に拗らせている。。。

もやもやしたのは、

彼女を自分の思い通りにしようとした故に、
DVに走ってしまった人。(A)

少女時代に虐待された経験を抱えながらも、
自由奔放さ故に大事な人を自分が傷つけてしまったと思って償いに迷走している人。(B)

コンプレックスを拭い去れなかった故に幼女趣味のレッテルを貼られてしまった人。(C)

この3人、A、B、Cの三角関係!!

それぞれの関係性に対するもやもやと
それぞれの抱える問題にもやもや!

と、

そんな話をしていたところ、
友人は歯に衣着せぬ言い方で

Aはよくいるタイプだ。と。
(話の内容から、つまり、束縛屋でプライド高くて冗談が通じない。イライラすると物にあたるタイプと受け取った)

Bは性虐待された過去を警察に打ち明けられなかったことから、現在も自分と大事な人(C)を傷つけ続けている。あの時警察に言っていれば状況が変わっていただろう。でも性被害の告白は当事者でないと計り知れない。しかも、悪いのは加害者。と。(ここは不可抗力の悪循環と受け取った)

Cは最大のコンプレックスを親に愛してもらえなかった。それがこの話のメイントピックじゃなかろうか。

と。

4人目の肝となる人

友人との会話で
ある程度もやもやが晴れたところで、
Cについて、掘り下げた。
その時のやりとりがこちら。

私: このCの抱えるコンプレックスは、
確かに誰にも言いたくないものかもしれないね。

友: ちゃうねん。

私: え?

友: そんなん(コンプレックス)言うたところで、
気持ちが変わってしまうなら、
ホンマの愛とちゃうねん!
(これは、家族、友人、恋人に共通する愛と受け取った)

私: そうだね。そんなの大したことないって、そばにいる身近な人が笑い飛ばしてくれたら、コンプレックスも怖くなかったかもしれないね。

友: その最初の役目を担うんが、親やねん!!

と、友人の言葉が、
至言のように聞こえた。

この話は、まさに、
そのコンプレックスを一笑に付すことができなかった親子関係から発展していると言ってもよいかもしれない。

しかしながら、
この作品中、
Cの親、Dは多く姿を現さないが、
Cの振る舞いを通して、
非常に大きな存在であることを表すように
描写しているシーンがある。

Cは私であり、あなただったかもしれないが、
コンプレックスを笑い飛ばして
丸ごと愛してくれている人はいたかしらと
目を閉じながら、瞼に浮かぶ人がいた。
何人かいた私は幸せ者かもしれない。

そして、Dはいつかの私。あなたかもしれない。
Dは映画では親設定ではあるが、
恋人、友人にもあてはまる。
好きな人、友達がいて、
その人がコンプレックスに思うことを
打ち明けてくれたとき、
『そんなことで悩んでたん?アホちゃう』って、
一緒に笑い飛ばせるだろうか。
『だからって離れていくかよ。』って、
言い放てるだろうか。
と、
そうある未来に思いを馳せてみた。

さいごに

思うところを
自分なりの視点で書きましたが、
それぞれの立場に自分を置いて
考えさせられる内容でした。

原作での描写も
文体でどう表現されているのか気になり、
本を手にとって読もうかなと思います。

まだ本を読まぬうちから言うことではないですが、
読後感と変わらないような後味を
映像で再現しているように感じました。
作品として見て良かった。

今回製作陣やキャストに一切触れず
申し訳ありません。

最後まで読んでいただき
ありがとうございます。

以上、Umiでした!

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