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自分なりの価値観や“資源”の見つけ方を振り返ってみる②人と話す(アウトプットとインプット)

自分の価値観や、自分の持っている能力や良さについて、昨日は、大前提として学ぶことがあると書きました。
今日は、人と話すことについて書いていきます。


学び、思考したことは財産だ。ただ、その財産が脳内に残るかは別問題。
目には見えない、自分にしか理解し得ない財産は、使い道のないまま放置され、埃をかぶっていく気がする。
習慣的に埃を払い、取り出すことのできる人もいるかもしれないが、私は残念ながらそれがとても苦手だ。
財産を反芻し、新たな学びや他の財産と組み合わせて考えたり。自分だけで完結してしまう脳内でのジグゾーパズルは得意ではない。
まだまだ、学びを実生活に活かそうという意識が足りていないのだと思う。

そんなとき、学びの財産を形として外に出すことで具現化することができたら、定期的な脳内の整理になる気がしている。
アウトプットは、文字として書き起こすことと人と議論を交わすことの2つに大別されると思う。

どちらもある利点は、言語化することで無意識の思考までもが形となり、今まで認識していなかった自分の考えを知ることができることだ。
今も、この文章を書きながら、自分は孤独に思考することがなぜ苦手なのか、言語化することで初めて理解することができた。
言葉にするということは、内に秘めた感情を具現化し、新たな気づきや学びにつなげる力があると私は思う。

だが、文字にしたところで、ほとんどの場合は自分の中で完結してしまうことになる。
人と話すことで、他者がその財産をどう捉えるかを知ることができる。
さらに、他者の学びに新たに繋げてもらうことで、財産がより多角的な視点になって洗練されると思う。

例えば、先日、自分の新たな学びとして気づいた悩みを友人に吐露してみた。
自分は何か成果が出せないと自分の存在意義が見出せないし、常に能力を人と比較してしまうため、自己肯定感が低い。
自己肯定感を高めるにはどうしたらいいなどあると思うか。

すると友人はこう答えてくれた。
「肯定するのではなく、自分の状態を受け入れている。自分にしかない特性がたくさんあるので、人と比較したことはあまりない。」

その時は、あまり理解できなかった。自堕落な自分を受け入れるとはどういうことか。私は別に人とあまりに違うこともないし、友人とは違うのか。

だが数ヶ月後、やっと友人の言葉を一部理解できるときが来た。
それは、カウンセリングの影響もあっただろうし、自分で思考し続けたり、HSPの本を読みまくって学んでいたこともあるだろう。

今までは、自堕落な自分をすぐに否定して、そんなことではいけないと嫌っていた。
そんな状態の自分をただ受け入れた上でこそやっと、なんでそういう状態に陥っているのかを冷静に考えることができると。
まさに自己受容の考え方だ。

その後、人と比較してしまうことについても腑に落ちた。
なぜなら、複数の友人と喋る機会を得て、自分の考え方の個性や、新たな特性を理解していったからだ。
私は周りの誰とも違う。違う土俵に立っているのに、友人の数や充実度合いを同じ物差しで計れるわけがない。

友人と話したこと、そして、私が風呂敷を広げた状態で新たな気づきの機会を待っていたことが功を奏した。
孤独な学びや気づきが実践的になり、考え方を改良するきっかけになった。

友人が悩みを吐露できるような信頼できる相手であったことも重要なファクターだ。
同じような学びの精神を持ち、自分に向き合っている人だからこそ、自己理解ができており上記のように言語化してくれたのだろうと思う。
相手を見極めて、アウトプットする内容を人によって変えるのも一つの手だと私は思っている。その辺は、HSPの特性を持つ私だからこそ得意なのかもしれない。

2章にわたって書いてみたが、おそらくこの2点ではまだ不十分だろう。
新たな気づきがあれば、また続きを書いてみようと思う。

今回もお読みくださりありがとうございます。
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