気づかいの話

気づかいの定義は難しいと思う。
この一文に対して、いや気遣いは気遣いでしょ?って思った人は、どちらかといえば気遣いが出来ていない人だと、私は感じる。
でも、おそらく、いや私は気遣い出来てるからこそ気遣いが何たるなのかを判っているんだ!と思った方も多いんじゃないだろうか。

私は先日友人に「気を使いすぎてしんどい。気を使うのをやめたい」と言われた。
その瞬間、私はもう何とも言えなくなった。
だって私から言わせれば、彼女が人よりも気を使う人だと感じたことがないからだ。
気を使えない人だと思っているわけではない。
でも、人一倍気を使っていると思ったことはない。並、もしくは小並くらいで、どちらかといえば、少ない方じゃないかな、という感じである。
ここで前提として先に伝えておきたいのは、私は彼女が嫌いではない。
遊びたいと思えば遊びに誘うし、笑って話せる事も多い。私のやばい事も知られていて、逆に私は、彼女の善人じゃないところも知っている。さらに、どちらかといえば、私と彼女の感性は違うが、ズレが大きいからこそお互い認め合うことができる、私達の妙に噛み合っているところなのかなぁ、とか思っている。
変だなと思うことは多々あるが、楽しい友達である。一度、彼女の変なところを別の友人に話したところ、友やめしたら?と言われたが、よけいなお世話だとちょっと腹が立って、自分でもびっくりしたくらいには、楽しい友人だと思っている。
なので、今回の発言も、(また私とはズレたこと言ってるなぁ)くらいの感覚で聞き流せば良かったんだけど、一度聞き流したあと、再度「気を使うのをやめたい」と言うもんだから、つい冗談交じりで言い返してしまった。
そうしたら、結構な語気でそんな事を言うなと言われてしまった。
なかなか、うまくいかないものである。


そもそも友達の変なところ

・私ともう一人の同僚が個人的に買っている飲料を飲みきった上で、後日「あれはちょっと困ったかな」と話したところ、「じゃあ同僚ちゃんが別のもの飲めばよかったのにね」って言ったこと
・みんなで旅行してドライバーの人に一人お土産渡さなかったところ
・食事会の準備の時、わりと早い段階で椅子に座ってしまうところ

上記を読んで、これだけ?と思う人もいれば、
やっぱり、なんで友やめしないの?と思う人もいるだろう。
特に、下2つは、強要されるべきじゃないと思う人もいるかもしれない。
ドライバーの人にお土産を渡してお礼を表すのに、それを強要しだしたら、それは純粋なお礼ではないと、私でも思うからだ。
食事会の時に準備することが前提になってなければ、やりたい人でやればいいじゃないか。なんなら、男どもが肉体労働としてやるべきだ。女性を小間使いのように使うな、と思う人もいるかもしれない(私は女だ)
でも、それが常識で、当たり前の気づかいだと思う人もいる。
ちなみに、私は真ん中は率先して出来たが、実は3つ目は、最初こそ、やらねばと動いていたが、椅子に座っている友人を見て、動くのをやめてしまった。
その数年後、その場に居た年配の方と仲良くなったのだが、その際に「実はあの時、真っ先に座った若者の貴方たち2人を見て、そういう良識のない子なんだなと思った」と話された。
その際、私は、頭ぶん殴られたくらいの衝撃を受けたが、不思議と(やっぱりあれは動くべきだったんだ…私は楽な方に流れてしまったんだ…)と思っていた。


実はその年配の人に言われたことは、もう少しある。
まあ、その人も出来た人間ではなく大概な人だったが、それでも彼女からの指摘は、私に新しい見方をもたらしてくれたので感謝している。
その指摘を受けて、私は自分は流されない人間だと思っていたが流されやすいし、私よりもコミュ力があると思っていた友達もわりと陰の者よりだったのでは?という事実だった。(いや、私よりは陽キャかもしれないが)
私は、友達が私よりもコミュ力がある=だから、彼女がしていることは変じゃない、みたいなフィルターがかかっていることに、年配の人の指摘によってようやく気づけたのである。
ただ、まぁ結局友達とは続いているし、上で書いた通り、面白い友達だと思っている。

話を戻すと、そういうところが友達にあると認識している私は、だからこそ彼女の気遣いは並、もしくは小並なんじゃないかと思っているのである。
私の中の気を使う人というのは、人に車を出してもらう時は何か奢ったり車代になるものを出すし、みんなとの食事の時は率先して動く、人が買ってきた物を最後まで飲み切ったりはしない。
まあ飲み物の件は別として、やっぱりドライバーのお礼も食事会で動くかどうかも、それは気づかいじゃない、過剰だ、と感じる人もいると思う。


気づかいって十人十色


逆に、私の日頃の言動が、誰かの眼には気づかいのない粗暴な人間に見られていることも否定できない。
私は、お世辞を言えない。
この友達だって、誰にだって「気を使いすぎてしんどい」と弱音を吐くのではないだろう。おそらく、私なら言ってもいいかなと思って言ってくれたはずである。おそらく。
私が本当の意味で気づかいさんなら、「色々考えすぎてしんどいんだね」と言えたかもしれない。
でも、私は言えないものは言えないというタイプである。なので、ちょっと変な空気になってしまった。
私は、わりと何でも言ってしまう。多少、それは黙っているだけでは人のためにならない、という思想があるからこそだが、でも、それが正しいとも思えない。
言わない、言えない強さもあるし、人それぞれ響く言われ方がある。
ようやく、その強さも、物の伝え方も、身についてきたかな~と思ったが、まだまだだったことは今回で実証された。
ただ、私がそんな風に色々考えていようと、外から見た時の私は
「ちゃんと損なことも言ってくれる良い人」か
「よけいなこと言うデリカシーのない粗暴なやつ」みたいな
そういう雑多なジャンルでしか分けられないのでは、ないだろうか。
つまり、前者は気づかい屋さんで、後者は気づかいのできないやつである。
もしかしたら本当によけいな事を言っているかもしれない。
でも中には、私が年配の人から受けた時のように、誰かに気づきを与えていることもあるかもしれない。
それは発信者である私の力量もあるが、受け手の器も関係はしているだろう。
だからといって、私のことを粗暴だと言う人を私はやっぱり否定はできないし、同時に、私は気を使う人間だと自分のことは自称できない。

友達も、色々気を使っているのだろう。
ただ、私が友達に一つ真っ直ぐ言えるのなら、自分が気を使える範囲は、自分が普段気にしている範囲だけだし、その気づかいも受け手によって形を変えるんだよ、ということを伝えたい。
友人が普段気にしていないことを気にしている人からしたら、友人は全く気を使えない人間にしか映らないんだよ、と。
そしてできるなら、彼女の過去のやっちゃったことが、実はこういう風に見えていたんだよということも、話してやりたい。
それはめちゃくちゃ屈辱的だと思うが、人間衝撃を受けてようやく自覚することは多々ある。
そして、彼女が思っている以上に、世の中、みんなの気づかいで溢れているんだよ、と。

こうやって色々考えると、やっぱり気づかいは難しい。
だからこそ、ある程度の適当感を私は大事にしていきたいし、自分が適当な分、他人の気づかいに対して、そんな感じか~くらいのスタンスでいたい。
過去の私がどうだったかひとまず置いておいてもらえるなら、私は一生「自分は気づかいだ」とは言わないだろう。
「自分が気にし過ぎかな?」とくらい言える余裕を持っていたいところである。

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