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病院から施設へ変わり、わたしはボールの投げかたを変えた。

わたしは10年以上、病院のなかではたらいてきた。
10年なんて、看護師にしてはぜんぜん長くもないし、経歴を自慢するつもりは毛頭ない。
10年以上はたらいてきたなかで、否応なく身につけてきてしまったことがある。
『身につけてしまったこと』
・・・そう。
それが清潔や不潔についての感覚であり、感染対策だった。

とくに救命センターにいたころは、『一処置、一手洗い』と言われ、病棟とちがってベッドから数歩歩いたところに手洗い場があるから、それこそ、患者さんに触れたあとはもちろんのこと、ベッド柵に触っただけでもすぐに手を洗う、という習慣がついた。

免疫力が低下していて、元気なひとならなんてことない菌でもこのひとたちにとっては命取りになりかねないのだから、そこまで厳しくするのも無理はない。

そういうことが常識の中ではたらいてきたものだから、施設ではたらき始めたばかりのころは正直とまどいが隠せなかった。

利用者さんたちが食べたあとのテーブルで食事をとる職員。(おなじところで食べるの??とびっくりした。)
(看護職員は別だけど)
腕を組んだり頭をなでたり、おなじテーブルで一緒にお茶をしたり。

車椅子の利用者さんにしゃがんではなしかけると、よしよしと頭をなでられたときには「ひぃぃぃぃぃ・・・・」となったものだった。
だけど、しばらくするうちに、あることに気がついた。


感染予防としてマスクをしっかりしたまま話しかけても、耳の遠いおばあちゃんたちにはまったくといっていいほど聞こえないのだ。


どんなに耳元で話しかけてもわずかに聞こえる程度。それに、それだけ聞こえないおばあちゃんたちを前に、マスクで顔を覆っていてはどんな表情をしているのか、なにを言っているのかさえわからない。

わたしは、利用者さんの前ではなしかけるときにはマスクをあえて外し、表情が見えるように、そして口でわかるようにややオーバー気味にはなしかけるようにするようにした。

「え、近い・・・」
とあまりに近くによってはなしかけるわたしに、ある看護職員はやや引き気味にしていたけれど、それでもそんなふうに工夫し始めてから、すこしずつコミュニケーションがとれるようになっていったような気がする。

高齢者は、ふつうのボールを投げて、きちんとキャッチできるわけじゃない。グローブが大きいのかもしれないし、もしかしたらものすごく小さいグローブをはめているのかもしれない。右手でしかキャッチできないかもしれないし、ひょっとしたらもう両手も上がらないのかもしれない。

わたしたちは、ボールを投げる相手がどんなグローブを持っているか、どんなふうに投げればいいのか、どんなボールなら受けとめてもらえるだろうか、と日々試行錯誤しながらボールを投げ続ける。

相手にしているのは、生きている人間だ。

マニュアルどおりのボールを、教科書どおりに投げていたのでは、キャッチボールなんてできっこない。

声も聞こえない、視野も狭くなっているおばあちゃんに対しては、両手を広げてハグするように話しかけるようにしたりもしてみた。そうすることで、そのひとの存在を全力で受けとめながら、あなたとはなしがしたいんだ、ということを伝えたい、とおもったからだ。

病院ではたらいていたときのじぶんが見たら、びっくりするだろう。
ええええー!!!って。

急性期医療の現場では、患者さんにふれるとその手は不潔と見なし、手を洗うか消毒してから、次の処置へ移行する。

もちろん、いまでも、そんなふうに全力でハグ・・・まではしないけど、ハグするように両方の肩や二の腕あたりに手をのせてコミュニケーションをとったあとは、かならず手指消毒するようにはしている。感染対策は必要だとおもうから。

でも、そんなふうにしてコミュニケーションをとるようになっておもうのは、やっぱり高齢者と自分たち、高齢者と一般のひとたち、というように線引きをしている部分があるんじゃないかということだった。わたしも、介護職員も。

お世話するひと、と、されるひと。
利用者さん、と、介護するひと。
入居者さん、と、ショートステイの利用者さん(いわゆる外部のひと)。

外部のひとってなんだ。
要介護者ってなんだ。
ほんとうは、人間対人間じゃないか。
おなじ土のうえにたっている、ひと、とひと、なはずだ。

それなのに、いつのまにか、あたりまえのように「要介護者」と「介護するひと」という役割分担をし、そのあいだに見えない線を引くようになっていた。

「人間対人間の看護」といえばトラベルビーだけど、(中身はもうすっかりわすれていたけれど)

看護の目的は「個人や家族、地域社会から、病や痛みの体験を予防し、病や痛みの体験においては、 その体験に立ち向かえるように個人や家族を支援すること」であり、そのためには「対人関係のプロセス (ラポール:信頼関係の確立)が重要」である。

と言っている。
する、される、の関係じゃなく、どちらが上でも下でもなく、ただただ、おなじひととして、間にことばではっきり言い表せないなんらかの空気が生まれることが、信頼関係の第一歩なんじゃないだろうか。

そんな信頼関係がうまれるようなやりとりができるように、受け取ってもらえるようなボールの大きさや色や投げかたを工夫していけるようになりたいとおもうのだ。


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