はじめて禅に触れるなら 石井ゆかり『禅語』

夢のようなコラボ発見。石井ゆかり×禅。どうしていままで知らなかったのか。

きのう、石井ゆかりさんと大愚和尚のかさなりを見つけたところに、今日はそのものズバリな本に出会うとは。

タイトルのとおり、禅語について、石井ゆかりさんがひとつずつ解説している本。こういう作品をみると、やっぱり石井ゆかりさんって占い師じゃなくて完全にライターさんだと感じる。このかたに書けないことはないんじゃなかろうか……

たとえばこの言葉。

喫茶去(きっさこ)
 この言葉は、日本では「まあ、お茶でも飲んでいらっしゃい」と訳されることが多い。しかし、これは本当は「喫茶しに行け」「茶を飲みに行け」という強い命令語であるらしい。
 座禅はひとりでする修行だが、茶を飲むことは、二人以上でする修行だ。私たちは日々、少しずつ変化し続けている生き物で、今この瞬間の「自分」と同じ自分には、もう二度と会えない。ある人とある人がある瞬間に「会う」ということは、もう二度とくり返されない、たった一度だけの機縁なのだ。そんな特別な時空で、ただ一度だけできる修行が「喫茶」なのだとすれば、これほど緊張感に満ちた、抜き差しならない「行(ぎょう)」があるだろうか。

茶を飲むことも修行。しかも座禅と対になる修行。
あぁたしかにそうだ、ってするんと納得する。

そしてこのあとの言葉がとてもいい。慈愛に満ちている。

 誰かと出会うときはいつも、自分でも気づかなかった自分の一部を引っ張り出されてしまう。未熟さや弱さに気づかされたり、時には、長所を見つけたりもする。自分のことが本当にわかるのは、「誰か」がそこにいるときだ。
 「誰か」に出会っているその瞬間、特別な光が自分を照らし出しているように思える。
(p.70-71『禅語』石井ゆかり 文、井上博道 写真)

ね。この文章を読んだあとだと、ただいっしょにお茶をのむ相手が、とてつもなく貴重でありがたい存在に見えてくる。おしつけがましくなく、それこそ橙色のやわらかな光をあてるように、人間のとてもきれいな部分を見せてくれる感じがするから石井ゆかりさんが好き。

うめざわ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?