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食レポの極意:時間を止める 池田浩明『サッカロマイセスセレビシエ』に学ぶ

あらゆるものが画面越し、ビニール越し、マスク越しになってしまったいま、じぶんの身体で直接楽しめるものがありがたい。そのなかでも、食のウエイトは大きい。
いつもの食事を、いつも以上に味わうにはどうしたらいいか?
この本を読んで、「時間を止めて食べる」という方法を知った。

これ、なんの言葉かわかりますか。

●宇宙から落ちてきた隕石(ベッカライ ヒンメル)
●時間をコントロールする機能(ポム・ド・テール)
●入るというより、迷い込む(ゼルゴバ)

パンですよ、パン。パンに添えられたキャッチコピー。

●夢が舌の上で現実化する瞬間(ダンディゾン)
●ユーラシア大陸を横断することなく食べられる幸せ(イエンセン)
●重力のないパン(ル・プチメック東京)
●フランスパンは日常の天才である(ヨシダベーカリー)
●パンが光を放っている(パン工房 風見鶏)

や、もう、こういうの大好物なんだ。ボジョレーヌーボーのキャッチコピーや、マンションポエムのような華美や過剰がいい。
だって、この人、パンを食べるときに、時空間超えて、物理法則さえ乗り越えてるわけでしょう。口のなかに小麦の塊を放り込んだだけで、こんな体験できるかい? 視力8.0のマサイ族みたいに、ふつうの世界から突き抜けた光景を見せてくれる人には憧れがつのる。

冒頭の言葉はこの本の巻頭にある。これは、東京のパン屋さん200軒についてのガイド本。辞書並みで、自立するほどの分厚さ。書いたのは、パンラボ主宰の池田浩明さん。ネットだと「このパンがすごい」という連載が読める。いまは、お取り寄せ可能なパンも紹介しているみたい。
https://www.asahi.com/and_w/seriese/konopan/

この、パンに宇宙を見る男・池田さんの味描写、すごいんだ。時間が止まっている。
パンを口元にはこび、鼻で嗅ぎ、くちびるで捉え、歯でたしかめて、舌であじわい、のどに送って飲みくだすというその一連の流れを、瞬間ごとに写真で撮っているような書きぶり。いや、写真というか油絵に近いかもしれない。カンバスのうえにこってりと言葉を載せていく。

たとえば、著者が「スタンダード、オーソドックス、メートル原器」と言ってはばからない「パンのペリカン」について。こんな調子だ。

・食パン(1斤)…口にする寸前すっと鼻孔に入る香りの、たとえようもないすばらしさ。発酵の香りが香ばしさのヴェールでくるまれたような。パンの快楽とは単にやわらかさだけではない。ペリカンの食パンはそのことを教えてくれた。弾力に加え、張力が重要だという先代の教えは、「欲求の本質的な部分を探る」ことから見出されたという。当たりはやわらかく、噛んでいくとやや抵抗し、ぎりぎりに沈みこんだところで、ぷちっと表面に亀裂が入り、歯切れる。

200字かけてまだ歯で噛んだだけよ、まだ味わってないの。歯がパンをとらえてから、噛み切るまでの刹那、立ち止まったことなかったわ。

あるいは、「理由はわからないけどけど無性にあれが食べたい」と思う味。つまり、毎朝、飽きずに食べつづけられるためには、「理由」に気づかれてはならないのだ。味わいは特別ではない。むしろリーン。口に運んだ瞬間は無色で、口溶けの中に小麦の味わいと、それを活かすだけの最小限の甘さが微妙にたゆたう。完全に満たされないがゆえに、次の一口を思わず誘われてしまうのだ。

「口に運んだ瞬間は無色で」!
メートル原器というだけあって、非常にプレーンな食パンなんでしょう。ワインを語るならまだしも、水を飲んで食レポせよって言われたら頭抱えちゃうように、これは書くのたいへんだと思うのだ。

さらに、ロールパンになると、赤い靴でも履いた小さな女の子を愛でるような、慈しみと危うい官能にあふれてくる。

・中ロール(5コ入り)…外は香ばしさが漂い、中身を噛むとバターの甘い香りがふっと湧きだす。両者とも、やわらかで、つつましやかだが、快さにあふれている。歯ごたえの魅力は、新雪を踏むときに似ている。ふわふわの部分を歯で確かめながら、踏みしめて愛おしみたくなる。
唾液に濡れ、香ばしさが消えていくにつれ、ミルクの甘さへと移り変わっていく。中身の触感のなめらかさと、口溶けの甘さのまろやかさの間に感覚的なシンクロがあって思わず目をつぶり陶酔してしまう。この甘さをずっと噛みしめていたい。

もう完敗だ。この文字を眺めながら、明日の朝、パンを食べてみようと思う。いつもの4倍くらいの時間をかけてみよう。きっと違う感覚が味わえるはず。


うめざわ
余談1:
呪文のような「サッカロマイセスセレビシエ」はパン酵母の名前らしい。サッカロ=糖分、マイセス=微生物、セレビシエ=酒。酵母の働きを表す3語。

余談2:パンづくりは「『サッカロマイセスセレビシエをめぐる、生死さえ賭けた悲喜劇』それはしばしば『会話』と表現される」(まえがきより)

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