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「精神の糧」(4)

「精神の糧」(4)

―孤独なる魂― (ハ)

 みずからの孤独を他の事物と同じく風景の如く観るものは、おのれの孤独を謳わぬし嘆かない。
 ただ。そのようなおのれの宿命を感受しておのれの立ち位置を自ら決定する。これは天命を知るという事でもある。
 だが、覚悟と、その自覚した覚悟が日常的地平に於いて簡単に血肉化されるわけではない。さらには、血肉化されても尚限りなき懊悩は続く。

 孤独劇や悲劇的劇を日常の糧とする人物もまた常にいる。彼等は或る種の人間の弱点を知悉している。ゆえに、それをおのれ自身の姿と重ね合わせてしまう読み手や観客達を如何にして惹きつけるか、と苦心する。これはこれで生活の糧を得るという観点からは当然でもある。善し悪しを問わず、世に需要と供給が成立する限りはこの図式は常に生き残るであろう。

 川端康成の言葉「文章はペンで書くものではなく、命の筆先に血をつけて描く」(新文章読本・新潮文庫)

 このような名状し難き悲痛とも言うべき魂の痛みを川端氏の作品を通してどれだけの人物が見抜けるであろうか?

 川端氏の世界観と表現は相対的意識により徹底されている。誰にでも分かる様な言葉で描きつつもその実体は空気のように捉え難い。

 三島由紀夫が川端氏を或る意味では的確に形容したように「永遠の旅人」である。ただし目的のない無方向の旅人である。

「地獄の火の上を涼しげに漂う」というわけにはいかなかった。

 徒然なるこころの有様は、ついにおのれの無力に耐えきれずに地獄の業火に身を投じた。

 無私から大いなる無私へと、創造的無私がスタート地点である。
 私の文章の真意が伝われば、おのずと人類の進化というものと連動、活動するであろう。

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