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「手紙」(2)

           - 返信―


君からの手紙、確かに受け取った。返事が遅れたのをまず謝る。

君に対しては前置きは不用と思う。君が言う「似て非なる」という言葉はシャレにしか聞こえないし、同類という言い方は何も私に対してだけに言うべきではない。
さらに言えば透明な闇を通過した云々とは私の視点から言わせてもらえば、君はまだ不十分であり、通過したなどと断じる意識には至ってはいない。
自分自身を写した鏡に私を重ねているにすぎぬ。心情の相対化において不徹底なのである。ゆえに感覚界にまで至っていない。

君が私の言う事を気に入ろうが、入るまいが事実なのだ。自明の事は自明の事として受け取る態度は最も基本の在りようだが、その基本とする事実を君は人類の在りようの固定的なパターンと認識している。君の直観は心情の核を知覚はしても、その核自体に呪縛されている。心情を律することが出来ないのは君自身なのだ。
他者からどのように見られようと、どうでもよいことである。君はまだ言葉の空間のなかで引かなくてもよい境界を引いている。他者との魂と融合する事に恐怖をもっている。
君が体感し、知ったと思ったのはまだ他者の一部の意識状態の段階でしかない。

謂わば君の自我自体の実体が重なった心情的内的体験でしかない。
個人の魂が自己自身を最も見失う地点であり、苦痛を味わう意識でもある。君もその内的体験を味わい今の君の立場を形成した。
君の意識は思考に関しては相対的意識を獲得した。その時君は世界の秘密を知ったと確信したはずだ。
世に存する芸術と呼ばれているものや、文学、心理学、哲学、宗教等の実体なるものを。
君にとって心眼、千里眼なるものは日常の意識となった。君は表現と生活そのものは一体と認識した。歴史上の人物も君にとっては隣人と化した。

宗教の創始者や、それに準じる精神や魂と同化し、追体験した時に君はその名状しがたい苦痛と至福を同時に味わった。
無論、日常生活のなかでその体験を伴ないつつ普通に生活するのは言語に絶する状態である。一般的には理解されがたいのは語るまでもない。
その体験のレベルに準じて創作がなされる。
いや、表現と変えた方がより広義の意味で使いやすい。
君は一切を相対化する事により精神のバランスを保った。
いかなる生き方も存在も方法もすべて一素材、表現にすぎぬと。
君が使用した透明な闇の意識だ。個と全体は精神的有機体であると。その関係の自覚の度合に準じて君は対応を決定する。
その意味では私の方法と、同じと言ってもよい。だが、その方法はすべての人々も用いている。
その内容を快か不快かと思うのはそれこそ自覚に準ずる。相対的に見れば君もその土俵のなかで他の人々と同じくじたばたしているのだ。

私との密約云々などと君が想うのは勝手だが。私には興味ない。私は君に対して君があえて無視する人々と等しく対応する。
私にとって君の快、不快など単なる個的色相にすぎない。

私は君に君自身を直視してほしいと思うだけだ。私の方法は君が考えているより非常にシンプルなものだ。
現象的に複雑、じたばたしていると見えるのは単に私が未熟であるにすぎぬ。戦っている相手は人間ではないと君は言う。
確かにそうだ。それならばなおさら君は君自身の在りようと意識自体を自己に厳しく律することを強いたまえ。

君の立場と方法とは今日の一般的知識人の在りようの変形にすぎぬ。私が君にあれこれ言っても意味はない。君自らが歩み、消化すべきものだからだ。君が望まぬ限り私は君の相手はしない。これは私の君に対する礼儀である。
何事も消化するのに時間がかかるのは当然である。私に対し変化球は無用である。
君が真の対話を望むなら、無論、私に限らない事だが、君のさらなる探求を願っている。

君は私の物言いに対してかなりの不快を感ずるだろう。
君も知っているように誰でも自分自身が得たものを何より大事にするからだ。
私とて例外ではない。
又、高所から語られるような意見は君にとって怒りすら覚えるだろう。
この手紙を受け取り読んでいる時の君の姿が私には眼前にありありと見える。

 君が望むなら私は直に君と会って話をしたいと思っている。
言語化されぬ対話が主となる事は君も知っていると思う。君に対して私は明言し、断定した。

私に皮肉は通用しない。
君が前回の様な対応を保持したければ私は君を無視する。挑発と受け取ってかまわない。
君の矜持は今日に至っては深化の妨げにしか作用しない。


賽は投じた。後は君次第である。君からしかけた問いである。

私は君の対応を楽しみに待っている。


     
一九九六年五月十三日


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