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「洞察力」



 所謂、玄人と言われる人物は分野を問わず全体と部分を同時に観る眼を所有している。

 如何なる対象も多様なものを包含している。だが、その核となるものがありそれを基点にあらゆる様相が状況により生じる。その状況を踏まえたうえで瞬時に判断するのが玄人の眼なのである。
 無論、此処で言う玄人とは単なる博識の事ではない。人生の玄人である。
 それでも芸術表現を観る玄人といえば若干事情が違う。
 現実のあらゆることを見抜く洞察力と芸術の本質を見抜く洞察力は微妙に違うのである。

 この問題は微妙かつ大いに誤解を招く問題を含んでいる。
 芸術、宗教等の本質と融合自覚し得た者のみが是を語れるのだが、これもまた簡単ではない。言葉で語るには大きな障壁がある。この問題は平行線をたどる会話となろう。

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 先に書いた洞察力に関してだが、これも謂わばピンキリで多様なレベルがあり、各分野に於ける達人や玄人は存在する。これら全てを統合する意識となればこれもまた質の問題が生じる。

 「一芸に秀でれば全てに通じる」という言葉があるが、通じるというだけで全てを理解、表現出来るわけではない。普遍的な表現には共通の空間、雰囲気がある。
 古今を超えて通じるものが表現されたものから発せられている。それを感受する感受性の有無と、何処までそれを体感、実感し得るか、である。
 人類の歴史上には優れた著作や作品等が現存する。またその解釈も多様に存在する。これらの既知の資料をただ用いるものは一般に博学と謂われているが、当の人物がそれらの資料、素材を咀嚼しておのれの養分として血肉化し得ているかが問われる。

 通常の知識では読めぬような専門書、分野がある。その分野の権威が内容の本質や実体を考察解釈し得るかといえば、これも単なる記憶力が良いだけということもある。いわゆるつぎはぎの解釈による言葉には言霊はなく、故に読者の魂を震撼させ得る力はない。この問題は現実の全てにも通じる。如何に知名度や権威がある人物と雖もこれは事実である。
 無論、専門書や自分の知らぬ分野を翻訳、知識として与えてくれる事は感謝の意は表するが、個人の偏見的解釈を権威的高みから語られるとあまり愉快ではない。それと如何にも謙虚ぶる人物も然りである。

 ただ、殆どの人々は世間での権威や認知度に左右されやすいのも事実である。あらゆる物事を判断する基準が自分自身に無ければ、是又止む無しというしかない。
 故に、これも当然ながら未知のものに対して自分に判断基準がなき場合は理解など出来ない。この繰り返しが人類史を形成している。これは今後も続く問題でもある。

 誰にでも理解できる表現ならば芸術表現の必要は無い。通常の世間話で済む事である。此処で又、区別と差別の問題が生じるが、これもまた厄介な問題を含む。

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