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幼少時の記憶

 洪水の風景の最初の記憶は私が三歳の時である。弟が二階の柱に縛られていて、村中が流れる泥水湖のようになった。死んだ牛や、豚や、ヤギ、鶏、壊れた家具類などが流されていた。小さな庭の桐の木の細い小枝にはたくさんの蛇が巻き付いていた。毎年のように起こるその泥水湖になった村に町の消防団の人が船を漕ぎ、おにぎりを運んでくる。そのおにぎりの味は特にうまかった。
 私達は冬でも、夏の格好であった。足は裸足である。家には塩すら無い。
 一度もらったタマネギを水煮で食べた事がある。だが口に含んでも不味い、それで無理に飲み込んだ、胃が受け付けずにむかつき、すぐに吐いた。その時はまる三日間何も食べていなかった。
水だけはいくらでも飲めた。家の狭い庭に井戸があったからだ。最も、私達は川の水を飲んでも平気であった。すでに、半ば野生化していたのだろう。兄の病弱な身体も極貧のなかにあって丈夫になったのだから。そんな生活のなかでも、私は同学年のなかでは一番太っていた。
春になれば食えるものは柳虫でも、ザリガニでも、雷魚でも、何でも食べた。だが、さすがにへびは食べた事がない。私は獸のように単に飢えていたにすぎない。
 私は一般的な人間の日常的感情は希薄であった。自分の欲しい物が手に入れる事が出来なければ、諦めるのは簡単であった。始めから無いと思えばよかったのである。
 私のこの合理的なものの考え方は幼い頃からすでに具わっていた。始めから無いものであれば私の個人的な感情もおきない。私はいわゆる感情というものがよく理解出来なかったし、感情自体の出現自体が不快であった。
 何でみんなは、些細なことで感情的になるんだろう?と。だが、皆のなかでは私も皆と似たものを出さないと逆に目立つ。私は人からの干渉を極度に嫌ったのである。私はその時から客観性の強い個人主義的な相対的意識が動物に似た形で自分にあったのである。それがはっきりと自覚されたのは両親の離婚を通してであった。

 母は父が完全に精神の病いが治っていない時に離婚を迫った。退院した父は母と家で何度もお互いを罵りあった。私はその光景をいやというほど見せ付けられた。子供の立場ではただ成り行きを見るしかなかった。母にはすでに男がいた。それも二人の子持ちの男である。離婚が成立してもまだ父は苦悩していた。私の意識の中で、一晩で自分の母は単なる他人となった。これも誰もが信じがたいと思う。まだ7歳位の子供が簡単に母親を他人と見做せるかと。
 私にはとっては実に簡単な意識の操作であった。私にとって親は子供の面倒を見るかぎりは、どんな事をしても親である。他の男と寝ようが、泥棒しようが、さらに言えば人殺しをしても子供の面倒を見る限りは、私にとっては親である。だが、捨てるとなれば話は全く別である。
 それまで私が、私を生んだ女に一番可愛がられていた。太った、色白の大人しい素直な子供で体温の高い私を女は湯たんぽ代わりに抱いて寝ていた。
私の本性を、女は全く見抜けなかった。女にとって自分の見栄と貧乏に対する嫌悪は当人にとって離婚の原因とはなっても、私たちを捨てる理由とはまるで関係の無い事である。私は自分を育てる限りにおいて親とみなす。だが、子供を捨てれば、すでに親では無い。
 私は他人となった女に執着する父の気持ちが分からないわけではなかった。だから一緒に演技で泣いた。私を引き取った父に私は同情しなければいけない、と自分で判断した。無論、一度きりではあったが。
 父は私と兄を引き取ったのですぐにでも仕事をしなければならない。だが、当時近辺では父の仕事はあまり無かった。木工所のかんな削りの程度の仕事でも少なかった。
 
 弟は話し合いの結果、女の所に引き取られた。だが、弟の住んでいる家の状況を聞くと私も兄も怒りの感情が出た。弟は久留米市に女とその男の家に住んでいて、そこからバスで私と同じ大善寺小学校に通っていた。バスで六つの停留所を乗らなければならない程の距離である。
 弟の住んでいた家には男の子供が二人いて、一人は中学一年の女の子で、下は私と変わらない年頃である。男は昼間から酒を飲み、子供達に新聞配達をさせているという。そんな所に弟を置いておく訳にはいかない。
 私と兄は弟から聞いた住所をたよりに久留米市に行った。迷いつつ何度も他人に聞きながらやっとたどり着いた。男の家を見つけるまで三時間位かかった。古い一軒家である。私と兄は家の土間から男を見た。弟の話した通り、赤ら顔の小太りの男が酒を飲みながら偉そうに座っていた。中学一年の女の子は痩せていて態度もおどおどしている哀れな小動物の感じがした。男の子も小さく痩せて何かを怖れている表情をしている。
 女は男に気づかっているのか、迷惑そうな表情で私たちが来た事を父の指図位に思っているような怪訝な表情である。酒焼けした顔の男は生臭く贅肉のついた不快な中年男であった。
 弟に隙を見つけて帰ってこいとバス代を渡して兄と私は家に戻った。弟は二日後、迷子になりながらも帰って来た。間違えて二つ手前のバス停で降りたという。歩いているうちにお腹が空いてパンを食べたらバス代が無い。その内に夜になり、雨の中で野宿したという。弟の話を聞くとよく私の家までたどり着いたと思う。恐らく獸と同じ帰巣本能であろうか。その時、弟はまだ七歳であった。
 兄弟三人を見た父は、兄と私があんな奴等の所には弟は置いてはおけないから連れ戻した、と言ったのを聞くと「石にかじりついてもお前達を育てる」と言って号泣していた。


 父は、酔っ払ってはあの女の所に行っては罵りあいをしていたらしい。これは後日、父から聞いた話である。私のなかでは女からすでにメスという位置に格下げがなされていた。いや、動物の方がもっと純粋で格は上である。
私が学校の見学で、たまたま久留米市内にある月星ゴムという工場に見学があり、工場の近くの通りで偶然、女は知っている学校の先生を見つけた。私の学校であると分かったのである。
 私を見つけた女は、私に近づいて来た。女は私に百円玉を渡そうとしたが、私はそれを拒否した。その時、私は口には出さなかったが「他人からお金をもらう筋合いは無い」と思っていた。
 私の行為は女にとってはショックであったらしい。女は私が自分に一番なついていて自分の事を今までと変わりなく慕っているであろうと思っていたのだ。父に猛然と抗議したらしい。
「あんたが、こうちゃんに変な事を吹き込んだんでしょう」と。女は泣きわめいて言ったという。
 私は、父からその話を聞いた時に「自分がした事が分かっているのか」と思った。
 私は父があの女に未練があるのが不快であった。何故あんな女をスパッと切れないのか理解しにくかった。単に貧乏というだけで我が子を捨てるなど、もしそれが人間の弱さで当然であるならば人間などに生きる資格も、権利も私は絶対に認めない。虫けら以下の存在などさっさと滅べばよい、と。
私の当時の年齢でそのような事が考えられる訳が無い。これは一般の視点の考えであった。
「おかあさんがいなくて寂しくないの?」この手の月並みな質問の多さに私は閉口した。
「いや、何ともない」私の答えに誰もが怪訝な顏をする。私にとって、この問答ほど不快なものは無かった。子供は母親になつくのが当然と思っている周囲の人間に対して私は考えるも不快なほどの蔑みを覚えた。
「あなたには、まだおかあさんの気持ちはわからないのよ。人生には色々あるのよ」この手のうんざりする女共の言葉には私は沈黙で答えた。
私は皆が言うような人生であれば、自分にはいらない!と無言で語った。
 私は大人だけではなく、子供も権威や周囲に対して自己保存の為の自己中心的な鋭敏さを例外無く持っている事を知っていた。

 幼い子が純粋で無垢などと誰が言い出したか知らないが、全くの愚鈍な解釈である。その解釈は生まれたての赤ん坊ならともかく、絵空事の観察としか言い様がない。恐らく、自分の鈍さを遮蔽する為に作り出された願望であろう。子供は単に自分の身を守る為に具えている獸の特性に正直であるにすぎない。
 この私自身が実際そうであったからだ。私自身が例外だと思った事はただの一度も無い。他の子供や大人が何故こんな簡単な心理を見抜けないのか?このことのほうが私には不可解な事であった。いわゆる体験不足による無知ならさておき、自分が子供であった頃、今現在子供である当人がそれを分からないとすれば人間が作り上げたあらゆる幻想、空想、偏見にただ呪縛されているだけである。聡い子であればそんなことは知っている。大人は相手が子供というだけで何も分からないと、たかをくくっている。私のような子供が例外だとすれば実に悲惨な状態であると言わざるを得ない。当時の私にとって、周囲の愚鈍な人間を偽り欺くのはたやすい事であった。

 私は村で死体や人間の骨を多く見た。私の村は土葬であった。村で多くの畑に点在する墓を掘り起こし、新築した納骨堂に納める為の作業がなされていた。私はその作業を非常に興味深く見学していた。白骨化したものが多かったが、まだ髪や肉が残っていて人間の形をしたものも沢山あった。大きな土壷に蹲って下には死体から出た水がたまっている。白骨化していない遺体は皆ドラム缶の中で焼く。腐敗した遺体を焼く時の匂いは異様に臭かった。
髑髏は壊れた機械の部品のように山積みにされ、墓堀人達はそれを前にしながら昼飯を食う。かつて人間と呼ばれた者達の塊がごろごろと山になっている。転がれば放り投げて上に乗せる。ただの廃品と同じ物にすぎない。無論、墓堀光景を見る事など村の殆どの子供は気持ち悪がった。
 私は掘り起こされる前の墓場に生えている土筆をよく取りに行った。栄養が豊富なせいか川に生えている土手の土筆と比べて二倍位の大きさがあった。
 作業員は、ただ機械的にひたすら掘り起こす作業に専念している。
彼らも最初のうちは、少しは物が物だけに殊勝な気持ちはあったかも知れないが、数十ケ所の墓となればいやでも慣れ、ただの物でしかなくなったのであろう。だから、転がると放り投げて積み上げるのである。

 私は生物の防衛本能が様々な形で変形されていることに関心があった。だから私を一番可愛がってくれた祖母の死も悲しくも何ともなかった。私の村は浄土真宗が多かった。それで通夜の夜、村人が私の家に集まり大きな数珠を輪になり、皆がその数珠を回すのである。その時、坊主がシンバルのようなものを叩いた。皆の深刻な顏や泣いているその光景の中でシンバルの音が不協和音として響いて私は無性におかしくなり大声で笑った。無論、叱られた。だが、それでも私はそのおかしさをこらえて下を向いていた。兄は大声で泣いていた。

 私の最も嫌いなものに坊主がいた。命の尊さを説く坊主が平気で他の命を食べていられると思った。私にとって宗教も権威のひとつにすぎない。まことしやかに命の尊さを説く坊主の頭を後ろからひっぱたいたらさぞ怒ることであろう。坊主の頭も木魚も同じ形に見えた。宗教家は断じて無償ではない。お金を払わなければ何もしない。商人とどこも違わない。目に見えない教義を金で売っている。詐欺師とたいして変わらない。私は子供の時にすでにそう思っていたのである。
 墓堀の男達も金で動く。学校の先生も、坊主も、みんな、金だ。私は無償で活動し、生きている人間を知らなかった。この考えは私が成長しても簡単には動かなかった。
 
 私の目から見れば、同世代の子供は全てが幼稚であった。学校の先生も人の良い人はいたが、私から見れば人間の着飾った、化粧したものにしか見えない。きつい言い方だが、人が良いとは愚鈍の異名にすぎぬ。私のこの考えは、私の生来の素質と村人の悪意の差別でしたたかに鍛えられた。
 最も、村人達は自分達の生活習慣や集団の縄張り意識、異物に対する排除が自分達を守る苦肉の策であったのであろう。それも各個人が自分自身を守るための弱者のしたたかな知恵である。単に無知であることから生み出された姑息な知恵と私は理解した。彼らはその世界で一生を終えていくのだろう。彼らの生き方には私は何の興味も無かったし、私の関与する事でも無い。
 私は、自分の不快な環境からは脱したかったが、それには私はまだ幼すぎただけである。
 
 私を感動させるものは稲妻だけであった。稲妻が走ると私は外に出てよく見とれていた。
 当時、私がどうしても友人になりたかった子供がいた。彼は、俗に知的障害と言われている存在である。私は彼だけがどうしても理解出来なかった。氷が張っている池や沼にも平気で入ってしまう。その彼の常軌を逸した行動は私を感動させたのである。
 彼は、私に違った感動をこの私に与えた希有な存在であった。私は彼を自分に振り向かせる為にあらゆる手段を使ったが、彼は私を一瞬は見るが、次の瞬間には私を見ていない。私は、彼が見ているものを私も見たかった。
私も冬の薄氷が張っている沼に入ったことがある。魚を釣る釣り針が沼の底の何かに引っ掛かた時のことである。水面から頭を沈めたとたんに刺すような傷みと苦しさに身体が硬直した、それでも潜ろうとしたが十秒と続かない。私にとって釣り針は大事な生活のための糧である魚を確保するための大事なものであった。
 彼は私の具えていない特別な能力を持っている。まわりではバカにしているがこの私にとっては半ばあこがれの存在であった。彼は恐らくこの世で何も怖れるものも何故生きている等の疑問もないであろうと私は思った。いつしか彼の姿を見ることもなくなった。私は、元々彼はこの世界には存在などしていなかったのだと思った。一応肉体はこの世にあったが、彼には肉体などあって無きがごとくのものであったであろう。私は彼が羨ましかった。私が寂しいと感じたのは、彼を自分の友人に出来なかった事である。彼と親しくなれなかった寂しさと比べれば親との別れなど何でもないことであった。
 


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