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2024年が始まりました

穏やかな元旦を迎えたと思っていたのに、夕刻、災害のニュースが…
実際、南関東に住む私のところでも揺れを感じました。
まだ地震から24時間経っていない今、私が心がける事は、まず確かな情報を最低限得る事、各々の主張は見ないようにする事(顔の見えないネット情報は特に)、信頼できる先で募金をする事(Yahoo!を利用しました)、今は専門の人たちに任せ、静観を心がける事。
そして、自分は通常の生活を送りつつも、他人事とは決して思わない事…


上記を踏まえつつ… 
noteを利用する理由である『推し』について、2024年が始まったばかりの今考えてみる事にします。

まず、推し活というのは、自分を保てて初めて成り立つのだな…と思いました。辛い時に精神的な助けになる事は事実なのですが、渦中にいる時は正直それどころじゃない…
今、推しの動画を見る気にはなれません。
地震の状況が復興に傾いた頃にようやく見る気になれるかも…
推し活は心に多少の余裕があってこそ楽しめるもの。
回復傾向にある時には最大限に上昇を手助けしてくれるありがたいツールなんだなと感じます。

2023年のアメフトシーズンが終わり、12月に推しの生誕祭を終え、私の中で大きな区切りができてしまったようです。
それは、来期以降の活動予定を思いがけず推しから聞いてしまい、それが私の理想とは違うものだった事が大きな理由です。

”映画みたいな展開を予想した私が悪い。現実はそんなにドラマチックじゃない…”

もちろん、予想とは違うものの、その推しの計画は、今後の人生プランにおいてとても重要だと思うので、推しの人生そのものを応援したい私としては、支持するだけなのですが、拍子抜け感はどうしても否めません。

テンションが下がるもうひとつの理由として、これは本当に単なる私のエゴなのですが、クリスマスから新年にかけて推しをメンションした投稿に対してひとつも反応が無い事。
もう飽きられたかな?とか、迷惑に思われ始めてる?など、あっという間に悪い方の考えに傾いてしまいました。
でも、実際は悪い方の考えだって当たってないと思います。
つまり…「推しの生活において私(という存在)は関係ない」という事。
感情で言えば「無」なのだと思います。
だから今それを私が悪い方に考えるのは、自意識過剰以外の何ものでもないので、推しの反応をあてにせず、「自分がどうしたいのか」を重点に置いて推し活をするだけです。
もしかしたらある時ふと私のポストを見て気持ちが動く事もあるかもしれない。もちろん無いかもしれないけど、それは私には関係ない。
だって私の推し活は私のものだから。

推しに認識された事によって、どうしても「勘違い」な部分が生じてしまいます。推しの生活に関わるはずが無いのに…
これはテレビで芸能人の誰かが言っていた、ロケ等で出会った地元の人が「あら、久しぶり!」と言ってしまう…みたいな状況と同じかもしれません。 こちらはよく見ているからまるで知り合いのような気持ちになっているけど、当人からすれば「知らない一般人」でしかない。
うっかりSNS上で反応もらったばかりに、私の感覚も盛大に狂ってしまっているのでしょう…

2024年のテーマがうっすら見えてきました。
長年の課題である「自意識過剰」からの卒業。
本当は随分前に克服できていたと思っていたのですが、推し活によってそれがあぶり出されてしまいました。

その自意識を「悪」とする事もない。
相手の反応を通してではなく、素直に自分の感情と向き合いたい。

少し気持ちが整理できたところで、今日の独り言はおしまいにします。






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