マガジンのカバー画像

私の過去:闘病生活とその中での気付き

43
大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
運営しているクリエイター

#病気

6.なぜ話せない?

友達や親戚たちがお見舞いにやって来るようになって、私はジレンマを抱えていました。 話せないから。 少し医学的な要素が入って来るかもですが、書いてみようと思います。 言語障害を起こしていた端的に言えば「言語障害」を起こしていたのです。 頭の中には単語や文章は浮かんできており、また、相手から話された言葉は耳で聞いて理解はできていました。 でも、伝えようとする機能を失ってしまっていました。 私がダメージを受けた場所は、「言語中枢(ブローカ野)」と「運動野(運動連合野・一

5.一般病棟に移ってから

ICUで1週間ほど過ごした後、一般病棟の個室に移動しました。面会謝絶の状態も続いていたので、両親は個室を選択しました。それに、完全看護のシステムだったとはいえ、ある程度元気になるまでは母も付きっきりの看病をしたかったようで、私の部屋で寝泊まりできる体制にはしたかったようです。 まだまだグッタリした状態が続く開頭手術で左の頭の半分ぐらいにメスを入れたから、直ぐには回復するわけないでしょ?という感じでしたから、1-2週間は親戚等も面会に来れなかったのです。ほぼほぼ眠っていたし、

3.目覚め

術後、1日ないし2日経って私はICUで目覚めました。 私は自分が置かれている状況の把握が全くできずにいました。 なぜ知らないベッドの上にいるのだろう。。。 なぜ何本ものカテーテルに繋がられているのだろう。。。 なぜ息苦しいだけなのに酸素注入用のマスクをしなければならないんだろう。。。 なぜ、なぜ、なぜ。。。 そんな状態でした。 父の行動私が目覚めたと連絡を受け、父が仕事の合間にICUにやって来ました。 その手には、当時使っていたボロボロになったSAZABYのシ

2.あの日の朝 その2

病院に着いて意識を失う。どれぐらい救急車に揺られたのでしょうか。 いつも自転車で爆走していた大きな道路をノロノロと走っていたような、凄いスピードで走っていたのか全く分かりません。ただ、その内病院に到着し、ストレッチャーに移し替えられて処置室に運び込まれました。 私の記憶はここまで。鎮静剤か何かを投与されて、翌日か翌々日にICUで目覚めるまで意識を失っていました。 母からの伝聞ここからは母の記憶です。 到着した病院はER(緊急治療室)も併設された脳神経外科クリニック。救

1.あの日の朝 その1

言葉を失った日ある年の2月のある朝、あの日は大学の後期試験が終わりホッとしていた時期でした。 朝の8時ごろに起き、不思議と私自身に向かって「おはよう」と挨拶をしました。 (言えない…) 頭の中には「おはよう」という単語があるのです。 けれど言葉にはできない、声は出るけれど「ウォ~、ウォ~」としか出て来ないのです。。。 「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!」 大声を張り上げました、号泣しました。 慌てて部屋から出て母に知らせようとし、階段の上から 「お母さん、