怒られた記憶以外もどうか。
なかなか布団から出てこない子どもたちに階下から大声で呼びかける。
「おはよー!時間だよー!もう○時だよー!」
私は少しサバを読んで今の時刻より遅めの時間を言う。
すると子どもたちは起きてきて私に
「まだ○時になってないよぅ、うそつきぃ〜」
と言う。
いやいや、そもそも遅いのよ。
○時に起きたんじゃ遅いの。
だから少しは焦って起きてきてよ、と思う。
でも、もはやそれにも慣れてきて、私が階下で声をあげていてもどうせまだ余裕でしょと思っているふしがあって、それがまた気に入らない。
だから、声をかけないで様子を見ていると、それはそれでやっぱり起きてこないから、こっちが焦ってくる。
結局ギリギリの時間になって怒鳴る私。
「早く起きなさい!」
「はいっ!!!!!」
本当に寝起きかと思うほどの素晴らしい服式発声の子どもたち。
1日の中で一番声が出てるんじゃないかと思うくらいの大きな声で飛び起きて降りてくる。
「寝てる時にママに起こされるの、ドキッとして心臓に悪いよ〜」
いやいやいやいや、優しく声かけてるよ?
なんなら私が起きる時に、朝だよ、時間だよって声かけてるよ?
こうやって優しく語りかけている私の声は全く届かず、怒鳴った声だけが記憶に残っていくのね、きっと。
時々、子ども時代に怒られた記憶がないっていう人のエピソードを聞くことがあるけど、うちは怒られた記憶しか残らなかったらどうしよう…と思うことがある。
そう考えたら少し怖い…今からでもいいからなんとか記憶の塗り替えを図ろうと、なんでもない日にケーキを買ってみたりする姑息な私。
どうか子どもたちの記憶の中に笑顔の私が残りますように…!と願わずにはいられない。
私の好きな漫画のセリフに「子どもは固まる前のセメント」って話が出てくる。
幼児教育を学んだ身としては、本当にそうだなと思う。
綺麗で柔らかな心に、土足で踏み込んで足跡つけて、それがずっと傷として残ってしまうことの怖さも知っている。
三つ子の魂なんとやら。
私だって、小さい頃に刷り込まれたことは、良し悪しは別として、しっかりと染み付いていて、ふと(あぁ、なかなか根深いね…)と思うことも多い。
でも、そのままセメントが固まってしまうことを想像するのはとても苦しくて、子ども時代に辛い思いをした人たちにとってはなおさら、セメントの中で固まっているそれを直視しなければならない現実は絶望でしかないはず。
その瞬間、私の心が急に騒がしくなった。
私の怒っている声や顔が、あの子たちのセメントの中で固まってしまってはいけない!
ほら、怒られた記憶以外もたくさんあるじゃない?なんて言ったところで、固まってしまったセメントの上では、どんなに雨が降っても染み込まないのと同じように、子供達の記憶には残らないかもしれない。
だから私は考えた。
そうなってしまう前に、なんとか子どもたちに伝えなければ!
「あなたたちはセメントじゃなくて新しいレザー製品なのよ!」
と。
…ん?
あー、えっと、思いのほかキマらなかったよね。うん、しってる。
語呂も悪いしレザー製品て何?って思うよね。
財布?
バッグ?
それともベルト?
あ、革靴かな?
はははー。
とりあえず、何でもいいから自分の知り得る限りの革製品を想像してみて。
ほら、まっさらな革製品を手に入れて、とっても嬉しくて大事に使おうと思っていたのに、爪や何かの角でガリってしちゃった時の絶望感。
セメントは、固まるまでに時間がかかるから、なんなら早く気がつけば修正可能かもしれない。
でも、革製品は一度ガリってなったらもうその傷は消せなくなる、一生残るの確定。
あの一瞬で心が折れる感じ、辛すぎる。
ツルツルで綺麗だからこそ、何かひとつ傷がつくと、とても目立ってすごくショックで、せっかく新しくて綺麗だったのにってガッカリするんだよね。
でもね、革のすごいところはここからだから。
最初の傷なんてどこだったっけ?ってわからなくなるくらい、次から次に傷がついていく。
それに使えば使うほどに手垢やシミ、汚れもついて、最初のゴワゴワしていた硬い革が、クッタクタになっていく。
そして、気づいたらいつのまにかしなやかで丈夫で、ツヤも出てとってもかっこいい革になってるんだよ。
成長していくってそういうことだと思うのよ。
うん。
君たちは革製品なのよ。(なんかやっぱりキマらない笑)
傷つくことは悪いことばかりじゃない。むしろ、傷ついてなんぼ。その傷がまた新しい自分を形作ることにもなるんだから。
もちろん、革が引き裂かれるほどの傷はダメ。
尖ったもので刺されたら穴が空いちゃうし、原型をとどめなくなるほどのダメージは絶対ダメ。
そんなものからは距離を置くべき。
でも、日々の暮らしの中でついていく細かな傷は、すべて自分だけの大切な模様になっていくはず。
新年度、新しい場所、新しい世界で、まっさらな自分にある日ついてしまった傷はとても目立って気になって、ガッカリすることもあるかもしれない。
てもね、毎日ガミガミ小言を言う母親の声が、また何か言ってるなーくらいに聞き流せるようになっているのと同じと思ったらどう?(いや、ママの小言はちゃんと聞け)
これから先、きっと想像していたのとは違うこともたくさんあると思う。
むしろ思い通りにいかないことばかりだろうけれども、それをそのまま苦しさや絶望感とともにセメントで固めてしまわないでほしい。
少なくとも、誰かのせいで不満を募らせたり、何かのせいで機嫌を損ねたりしたまま放置せず、自分のワクワクは自分で確保しながら、傷ついたらその都度なでてみがいてツヤツヤな自分にしてまた出かけていけばいいんだ。
ここまで書いてふと、誰よりも私が、子どもたちをセメントで固めてしまっているかもしれないと気付いた。
どうせ起きない。
どうせできない。
まだまだ子ども。
そんな思いが私の中のセメントにくっきりと残ってしまっていたのかもしれない。
まずは私のセメントを革製品に交換だな。
何にしようかな。
バッグがいいかな。
新しい靴も欲しかったんだよね。
あー、財布は毎年変えようと思いつつ、今年は買ってなかったなー。
笑
私の革がいい感じに育つまでには、まだまだたくさんの時間がかかりそうだ。
人生の終わりにどんな仕上がりになっているのか、楽しみがひとつ増えた。
今日のこれもまた、小さな傷のひとつとして。
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