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「できる・できない」からはじまる方法論と学習論

できる・できないというのは使われる状況で変動するにも関わらず、その意味を共有できていないことが多いように感じる。「技術的には可能」といった言葉でできる・できないをはぐらかす場合も多い。

できることとできないことの選別は誰かしら特定の人が決めなくては行けないものではないが、時には特定の人が決めたほうがいい場合もある。特定の人が決めるべきことは「資格」や「試験」など一定の水準を設けるときである。

すべてのことはできる、できないに分類できる。「少しできる」「おおよそできる」というのは、その「できる」という対象の中で分類されるいくつかのことができる、もしくは全てはないにしてもほとんどの項目ができる、というものであって、最小限に分類されたことに対して「少しできる」「おおよそできる」ということは、ない。

何かができるようになるとなにかができなくなる、ということは往々にしてある。右足を上げると左足が上がらない、というように。と言われて「できない」と思ってしまいがちではあるが、椅子に座るなり宙に吊るしてもらうなりすればできる。右手でフライパンを振るいながら右手で包丁でトマトを切り、更に右手で書道をすることは可能かどうかというと可能で、1人や2人でできる人もいるかもしれないが、通常は3人以上いればできる。

次の問題はどうだろう。一度だけ読んで、読み返さずに考えてほしい。

A国からB国に向かう飛行機が、A国とB国とのちょうど国境でエンジントラブルにより爆発しながら墜落してしまった。このとき、A国の生存者をB国に埋葬することは可能であろうか。




この問題は1960年代からベストセラーとなった、多湖輝先生の頭の体操の中に記載されていた問題だったと覚えている(が、頭の体操に似た別の本だったのかもしれない)。この問題の答えは「生存者を埋葬することはできない」という、ミスリードを狙った問題である。本来の問題は

「A国からB国へ向かう飛行機がA国とB国の国境付近で墜落したとき、A国の生存者をB国に埋葬することはできるか」

というシンプルな文章であったが、少し情報量を増やしてイメージさせることをしてみた。どちらがミスリードするかはわからない。いずれにしても、埋葬の定義は「死者を地中に埋めること」であるから、生存者を埋葬することはできない。ただし、この事故を受けたA国の生存者がその後の事故や病気、もしくは寿命で亡くなった場合は、B国に埋葬することは可能かもしれない。もちろんここまでいくと問題文の意図ではないが、できる・できないでいったら「できる」といえる。文章で表すと

A国の生存者は(現在は生きているから今すぐ埋葬することはできないものの、その後また飛行機の墜落事故に遭うかもしれないし包丁で刺されるかもしれない。不治の病に侵されるかもしれないし、子供がポッキーを食べたことでビルが爆発し、それに巻き込まれるが一命をとりとめるもその瞬間の寿命を迎えるかもしれない。そのときにはB国に住んでいて、それらの理由で亡くなったあとには)B国に埋葬が可能

となる。土屋賢二先生のエッセイみたいな文章になった。

まったくまとまっていないようではあるが、今回伝えたかったこととしては、

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フリーランスをしていますが病気で働けないことがあります。記事がなにか琴線に触れたら支援いただけるととてもうれしいです。