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『運気を磨く』(田坂広志)感想【そもそも幸運は存在するのか?】

工学博士・田坂広志さんの『運気を磨く』(光文社新書)を読みました。

本書は科学的な視点を土台に運気の正体と、運気を高める方法について語った実用書です。

【結論】本書に書いてあることが『引き寄せの法則』とか『開運術』のほぼすべてのような気がする(個人的には)。

僕なりに得たものをまとめると下記のようになります。

「運気」は厳密な意味では存在しない。
出来事に対する「運がいい」「不運だ」という解釈が運気なる概念を存在たらしめているだけ。

しかし、それは「運気なんて考えても無意味。くだらない」ということではなく、むしろその逆。

「運がいい」という解釈を出来ることこそが「開運術」であり、それが出来るからこそ充実した人生が送っていける。
これがまず第一に重要なこと。

その上で本書は必ずしも世間一般で言うところの開運を必ずしも否定しているわけではない。

しかし、それよりも上記の『解釈力』こそが最大に重要なことであると説いている。

逆に言えば解釈力の低いところには、どんな開運術をもってしても幸運は顕現しない。

なぜなら現象を『幸運』として解釈できないからだ。
つまり開運の第一にして最大の秘訣は解釈力をつけること。

これらの具体例を順序立てて説いているのが本書です。

『解釈力』について具体例をあげると、
例えば事故にあって片足を無くしたとします。

このとき「片足を失った。なんて不運なんだ」と思う人が「不運な人」です。
そして
「片足は助かった。なんて幸運なんだ」と思う人が「幸運な人」だと筆者は説きます。

実際、片足を失ったら誰でもショックでしょうから、たちどころに「幸運だ」なんて思える人は、なかなかいないでしょう。しかし筆者の言いたいことはよくわかります。

そして筆者は、こう続けます。
このような解釈を出来るためには「感謝」の心がベースにあることが必要不可欠であるのだと。

これは「ありがとう習慣」をしてきて意識の変化を実感した自分にとって、大きくうなづける言葉でした。

人間は無いものには気づきやすく、「あるもの」には気づきづらい。
「あるもの」に気づけるということは、その「あるもの」に感謝できることとほぼ同義です。

逆に言えば、むやみやたらと感謝していくことが、この「在るもの」へ気づく第一歩となります。

「片足が助かった、ありがたい」
「なにはなくとも、いま両足がある、ありがたい。なんてツイてるんだろう」
こう思える人は「幸運な人」です。

「片足を失った、最悪だ」
「今の自分にはなにもない。最悪だ。ついてない」
命や両足が在ってもこう思ってしまう人は「不運な人」です。

「客観的な運不運は存在せず、自分の解釈だけが全て」という言葉の意味がよく分かるのではないでしょうか。

だからといってブラック企業で過酷な労働をしている人に「感謝が大事ですよ。感謝しましょう」なんて言うつもりはありませんけど。

僕も過去、ブラックな職場にいたときに「ありがとう習慣がいいよ」なんて聞いたら、

「へー、よさそうだねー」
なんてその場では言いながら、

「けっ、ふざけんな。きれいごとかよ。これだけ苦労してる俺にさらに鞭打つようなことを言うのか。これだけの重荷を背負わせられて、そのうえ更に俺が悪いっていうのかよ」

と、きっと反感を抱いていたことでしょう。

癒えない傷が多ければ多いほど、まずは癒やしたり解毒することの方が急務であって、感謝なんて出来るわけもない。

おそらくこの手の情報になにかの拍子にふれる機会があっても、右から左に流していたんじゃないかという気がします。

(げんに、僕がこの手の情報をキャッチするようになったのは、ブラックな職場を離れて、ある程度、こころと時間に余裕ができはじめてからのことでした)

というか、もっと根源的なことを言うと、
今すでにあらゆる人が、そのときの自分に必要なことだけを受け入れていると言っていいんじゃないでしょうか。

例えばブラック企業で働いていたときの僕には「ありがとう習慣」なんてものは、おそらく無用の長物だった気がします(むしろ害悪ですらあったかも?)。

そういうものを受け取れるだけのキャパシティが自分の中にきっと無かっただろうと思います。

逆に何を必要としていたかと言えば、思う存分に愚痴が言える時間だったり、帰り道に心を浄化するために聞く大好きな音楽だったりしました。
(終電で帰りながらイヤホンで中村佳穂さんとかよく聞いて癒やされていたな〜。今も好きだけど)

要するに巷で『引き寄せの法則』と呼ばれるものを別の言い方で表現すると『今の自分にちょうどいいものだけをキャッチする法則』ということになるのでしょう。

これは考えてみれば当たり前のことです。
カレーを食べたいときはカレーを食べたいのであって、そこに菓子パンや精進料理はまったくお呼びでないわけです。

明るい気分のときは明るい気持ちになるものが欲しいでしょうし、沈んでる気分のときは悲しみに程よくひたれて感情浄化できるようなコンテンツのほうがありがたかったりするわけです。

なので『引き寄せの法則』は第一義的には、客観的に幸運と呼べるようなことを魔術のように引き寄せるものではない、と筆者は説いているように思えました。

しかしながら逆説的に、筆者はこうも説いています。
開運するためにはネガティブな想念を手放す必要がある。
そのためには感謝が重要。
感謝がベースになると、今まで不運と思っていた同じ出来事を幸運と解釈できるようになる。
だから軽やかに生きられる。
その結果、さまざまな良き縁が舞い込んでくるようになる。
(ここには、いわゆる波動的な引き寄せも実在するかも?重きは置かないものの筆者もこの可能性には言及している)
そうなると当初の望みであった「客観的な幸運」も手に入ってしまうのだと。

なので「幸運は存在しない。しかし存在する」
そんな一見、矛盾しているような状態が筆者の説く「運気」なのです。

開運はスピリチュアルであると同時に、ただの客観的世界のごく当然に起きる物理現象でもあるわけです。

筆者はたびたび「ぼくはオカルトでも宗教の支持者でもない」という釈明をしながら持説を訴えていくのですが、まさにこういうスタンスのとり方が今っぽいなと思えます。

今は他人軸から自分軸へ移行していく過渡期なのでしょう。
だから、どうしてもこういう両者を橋渡しするようなエクスキューズが必要になってしまいます。

でも僕なんか、そろそろ、こういう橋渡し言葉はいらないんじゃないかという気もしてるんですけど(でも、きっとそれがないとかえって分断を深めてしまうこともあるんだろうなぁ)

つまり、これからの時代は「科学か精神世界か」という二項対立ではなく、
「科学も精神世界も」という従来の二項対立的概念が融和していく時代になっていくんだと思います。

不仲の時代は終わりました。
これからは、あらゆるものと融和して軽やかに生きていく時代です。
つまり、もう誰かと戦ったり競ったり説き伏せたりする必要なんてないんです。
誰の目も気にすること無く、ただ自分にとって心地よいように生きればいい。
(利己的に迷惑かけ放題で生きろって意味じゃないですよ)

そうこうしているうちに時代の空気が勝手に変わっていけばいいんじゃないのかな〜って個人的には思います。

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