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【ありがとう実験:第3弾】"ありがとう"の正体は位相を整える波か?

上の画像はコロナに罹った後、ろくに観察もせず放置していたオレンジの皮。
そういえばどうなってるんだっけと思って3ヶ月ぶりくらいに見てみたら、こんな状態に。
「ばかやろう」が裏表カビだらけ。
「ありがとう」と「アリが問う」は、ほぼ無傷。
「無言」は半分が裏表カビだらけで、半分は無傷。
なんじゃこれ。

オレンジの皮ってよく考えたら防腐剤でコーティングされてるからなんの変化もないのかもと途中で思ってから半ば興味を失ったように放置しちゃってたんですけど、この結果。

↑裏面も同様。言葉の書いてないのが無言。
↓下は年末頃に撮った同じオレンジの皮です
右上「ばかやろう」と右下の「無言」だけがカビだらけに。なぜ???

ちなみにすべて同じオレンジ1つの皮を分解して、それぞれの文言を手書きした袋に分けましたので個体自体の差ではないはず。
皮の分量とかの都合で「ばかやろう」だけ一枚になっちゃったんですけど。これだけ汚い手でさわったとかいうことはないと思うんだけどなぁ(厳密な実験じゃないからなんともいえない)。

あ、ちなみに透明じゃない袋でも同じような初期実験をしてました。これはディズニーのキャラとLOVEという文字がプリントされてる袋で、さらにプラス1ヶ月くらい放置しちゃってたんですけど、こっちは全部ほぼ同様な状態でカビだらけでした(見た目がばっちぃすぎるので写真は割愛します汗)

ぼくは、こういう物理的な「ありがとう効果」については今も懐疑的です。とはいえ、まぁ、なんかそれっぽい結果が実際に出ている(でも偶然かもしれない。あんま再現性ないんじゃないかという気もしている)。

ただ本当に「物理的なありがとう効果」とか「言霊」が実在したとしましょう。そしたら、どういう理屈でそれが存在しているのか、について考えてみた。

ぼくがこれらに懐疑的なのは江本勝さんの「水からの伝言」をどう受け止めたらよいのか自分の中では明確な答えが出ていないからです。

ぼくは「あんなもん嘘っぱちだよ」と切って捨てるつもりもないけど「これが真実だ」と思えるほどの根拠も持っていない。
なので様子見している状況。
それがわからないから自分でもこうして実験している。

ネット上で調べると「両者で何の違いも出なかった」という結果報告も無いわけじゃない。

バクスター効果で有名な?知る人ぞ知る?バクスター博士によれば「意識の関与する実験は実験者や周辺人物自身の意識の影響が生じやすいので実験環境を厳密に作る必要がある」らしい。
自動装置を作ったりする必要があるらしいが、そこまでの時間も予算も今はない。ので後回しになっている。

ただ我が家のオレンジは、それっぽい結果が出た。それ自体は動かし難い事実である。なのでこの問いとは答え保留としたまま、しばらく付き合っていく必要がありそうだ。

よく「水からの伝言」に対する反論として「水が言葉を理解するわけないじゃん。ばかなの?」というのがある。

あと「あれは空気中の蒸気が凍ってるだけで、ありがとうを浴びせた水が結晶を形作っているわけじゃない」という、なかなか説得力がある反論もある。

確かにそうかもしれない。でも、あえてそうじゃない可能性も考えてみよう。何か見落としがあるかもしれんし。

まず「水が言葉を理解するわけないじゃん」に対する反論。
これは二重スリット実験の話にも似ている。「まるで電子が人間の振る舞いを理解しているようで不気味だ」というやつ。
過去記事に書いたように、電子が人間の振る舞いを理解しているのではなく、その干渉自体が人間の思考をも含む固有の波を持った情報たちの干渉結果だと解釈してみる。
すると一応「ありがとう」で綺麗な結晶ができて、「ばかやろう」だと結晶化せずに乱れて歪む、という現象はひとつの論理で説明できるように思える。

つまり水が「ありがとう」を理解するから幾何学的な結晶になるのではない。
そもそも「ありがとう」という情報が持つパターンは幾何学的に整った結晶を作る形質なのだ。
つまり、にわとりとたまごが逆。

つまり、まず整った結晶ができる周波数がある。
それが人間社会では「ありがとう」という言葉として顕現しているのであると。
「ありがとう」の正体はそもそもどんな情報とぶつかっても位相を整えてしまう波、そのようなコヒーレントな波であると考えてみてはどうだろう。

だから「ありがとう」という言葉は「ありがとう」を放った時だけに生じるあの特有のクオリア=あったかい感じ、人をハッピーにしてくれる感じを生じせしめる。

例えば、千円を落としちゃったとしましょう。
ここで「くそ!」と荒れて腐れば心身ともに荒れて腐るし、「これで一層気をつけるようになって将来、大金を落とさずに済みます。千円落としてありがとう」と思えば心身ともに整う。
そういう波の在りようが「ありがとう」の正体であると考えてみてはどうだろう。

逆に「今日から『ありがとう』は『がびがごう』と言い換えることにしましょう」と法律で決めたとしても、しっくりこなくて定着しないのではないか?
なぜ「ありがとう」が「ありがとう」として定着したかといえば、そこには本質的な理由があるからではないか。

これはいわゆる「ブーバキキ効果」と同じことだ。
「印象」は主観的かつ個人的でそこには理屈がないように見えて、その実、人類に共通する普遍的根源的な理屈があるのではないか。
ただ実験結果を左右する変数が多すぎて、その本質の部分を特定しきれないだけではないか。
(などと、ぼくは職業的科学者でもなんでもないのをいいことに、ただの直感によってズバズバと書いてしまうのだ笑)

もしそうなら、このオレンジの皮で、これほどはっきりした差が生じている事実の説明にもなるかもしれない。

ぼくは近頃、仕事関係の学習に多くの時間を費やしているのだが、勉強してたらこんな声が脳裏をよぎった。
「へー、それってそうなんだ」
「へー、おもしろいね。すごいなぁ」
幻聴を聞いたわけではない。しかし僕の肩に言わばたくさんのコロボックルが乗っていて学習参考書を一緒に覗き込んでいる。そして彼らが、そのお勉強の内容を面白がっている囁きが聞こえてくると言ったらいいだろうか。

たとえば目が痒いと僕が思うのは実際に目が痒いから。
お腹が空いたと思うのは、実際に空腹だからである。
では、それは、ぼく自身が空腹だと言えるのか、
それともぼくというより体さんの方が空腹で、
その体さんの思いをぼくが追体験しているだけなのか?
ぼくの意識とは、そういう無数の意識の集合したものを混ぜ合わせた結果の上澄みのようなものではないか?

ぼくの自己意識は近頃、そんな感じである。
自己が多層的に分解しながら緩やかにつながっているような感じである。
自己が、ふくよかな花も咲けば家畜も村人もたくさん暮らしている村のような様相を呈している。

自分とは、ただこの視点の位置のことだけなのではないかと思い始めている。
そして、肉体や細胞や家具や部屋や家族や空気や光や太陽という村人たちと一緒に暮らしている感じ。

賛否あるAIですが、これはきっと社会構造を変えていくことでしょう。
AIが労なく価値を生み出し続けていくうちに、
そもそも価値とは何かという問いが生まれ、
今までの価値が転覆し、別の価値が見出され、
それは新たな生き方、価値観を人間に促すようになるでしょう。

所有の概念を徐々に変えていくかもしれません。
所有の概念の崩壊とは自己という観念の変化です。
所有とは強い個としての意識から生まれる欲求でしょう。
その個が輪郭を曖昧にしながらゆるやかに外側に向かって広がっていったとき、所有することは重要ではなくなります。
なぜなら自分と物と世界が限りなく等しい存在になっていくから。

そのように個が分解していくでしょう。
個の分解とは全体への融和を意味します。
油の塊に洗剤がひとつぶ落ちた様子を想像してください。
油は半ば分解し、周りと溶け合っていきます。
これがこれからの人間の姿なのではないですか。
私とあなたの境界はあいまいになりはじめることでしょう。

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