学説の変遷と研究者の雇用状況

 文系と理系とを問はず、学問研究で主張される学説には、その研究が行はれた時期毎の特色がある。さうした学問研究の在り方それ自体を研究対象として取上げる試みが、学術史や科学史と呼ばれてゐるものだと思はれる。思想史もまた、その類の試みだと言へるのかもしれない。

 学術史、科学史、思想史は多くの場合、思想家や研究者を選び出し、その人物の生い立ち、交友関係、主張した学説の内容、その学説が生れるまでの経緯、といつた事柄を検討してゐる。そこで複数人の人物が取上げられ、時系列順に並べられたならば、一種の通史になる。一人の人物が取上げられたならば、評伝といふ形となる。そして学術史、科学史、思想史それ自体に於ても、同じ対象を取上げてゐながら、その研究が行はれた時期によつて学説が異つてくる。

 我々は、学界動向を概観した論文、或は学術史、科学史、思想史の業績から、学問研究が辿つてきた主張の変遷を知る事ができる。しかしそれらの著述を読んでも、今一つよく分らない事がある。

 学界動向を概観した論文を見ると、次の様な文言に出会ふ事がある。「〇〇に関する研究は、1970年代以前には~といふ理解が通説の位置を占めてゐたが、80年代に入ると批判され、××といふ主張が現れる。それに続く90年代には、××といふ主張について個別事例での分析が進められる。かうした動向を承けて、2000年代には▲▲といふ試みが現れた。そして2010年代以降は(以下略)」と。

 この様な文言を見る時、その研究対象に関する研究が進展してゐる、といふ印象を受ける。しかしそこで説かれる学説の変遷といふ現象が、一体どんな在り方をしてゐるのかついては、よく分らないのである。成程、方法論や問題設定の変化といふ点については、詳しく書かれてゐる。しかし、私が問題としてゐるのは、さうした方法論や問題設定の事ではない。私が問題とするのは次の事である。即ち、研究といふ営為が行われてゐる大学や研究所の置かれてゐる状況と、学説の変遷といふ現象とは、一体如何なる関係にあるのか。

 近年、日本の若手研究者を取巻く厳しい状況が、頻りに発信されてゐる。私はさうした情報を見る度に、学説の変遷といふ現象について、次の様な事を考へる。

 若手研究者は厳しい雇用状況の中で、正規雇用を得る為に、業績を残そうとする。しかし研究といふ営為は、研究対象との付合ひに外ならない。その際に最も時間がかかるのは、研究対象が持つリズムの様なものを摑める様になるまで、対象そのものを見る事であらう。それは「創造性」といふ言葉一つを振り回してみたところで、どうにかなるものではない。しかし往々にして、対象を見る事に徹してゐられる程の時間の猶予が、若手研究者にはない。

 さうした状況の中で、「新しさ」を主張しようとする時、どの様な行動が採られるだらうか。けだし、研究者は研究対象と付合ふ事を止め、先行する学説を論破する事だけに全力を注ぎ、論破した事を以て「新しさ」を主張するのではないか。

 かうした事情が、現在の日本の学界に於て広く見られるとすれば、次の様に言つても、強ち間違ひではない事になる。即ち、学説の変遷と呼ばれてゐる現象の内実は、研究対象を置き去りにした、一種の政治闘争とも言ふべきものになつてゐる、と。

 「新しさ」といふ言葉が頻りに唱へられてゐるだけに、以上に述べた事が空想に過ぎないか否か、気になるところである。

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