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無意味な回文シリーズにおける無意味な考察

前置きです。

今回、ギャグがありません。しかも文字ばっかりです。コムズカシイことを考えたくない場合、読まれないほうがヨロシイです<(_ _)>


ここ最近で5作描いた「回文」シリーズ。毎回「無意味」とつけてあるのは「作品としてのテーマは別にない」ということです。

順序としてまず回文を考える。これはまったくのシロート(?)なのでそうデキのいいのは作れません(^_^;)でも一応文章ではあるのでたとえば「玉ねぎね、また」は言葉としての意味は通ります。玉ねぎ、は絵が浮かぶし、また、といえば(いつも玉ねぎを買ってるか売りに来るか、とにかくそういう背景があるんだろう)と考えることはできます。

実際「ありがとう4000」で紹介したnoteにも回文にイラストを付けるという試みがありました。紹介記事はこちら↓

紹介された元記事はこちらです。


では「まったく偶然にできた回文でマンガを描いたらどうなるだろう」というのがこのシリーズの実験眼目です。

言葉には具体的であれ抽象的であれ意味が付いて回りますのでどんな無理な回文でも「なんとなく意味が取れる」ことは作っていて感じました。出来の悪いのをいくつか並べて見ましょうかw

「マントの頓馬」

「九人にニンニク」

「浮くトマト食う」

などなど(ああ恥ずかしい)。ただ意味はわかるし、なんとなく絵も浮かびます。現実にあるかどうかは別とすれば。

言葉は現実にないことでも言うだけは言えますよね。「やせたデブ」とか、「小さな巨人」とか。比喩としても使われますが、基本的には矛盾している、現実に実体がない言葉。兎角亀毛(とかくきもう)というやつ。

遊びの絵は現実にないものを自由に描いてヨロシイので無理な回文を絵にしたら面白いかも…は良くわかる。ただマンガはコマが複数あります。複数あればどうしても順番ができ、1が2したら3になって4だった、という論理展開が生まれてしまいます。さあどう転がるでしょうか?これは楽しそうだと思いました。

余談ですがマンガを定義して「連続的芸術」といったのがウィル・アイズナーで、それを受けてスコット・マクラウドは自著『マンガ学』に「意図的に連続的に並置された絵画的なイメージその他の画像」とマンガを定義しました。当方の知る限り一番わかりやすい定義だと思います。フランスのバンド・デシネ「連なった絵」の意だし、中国では「連画」という由。

この定義に沿って、まず回文に絵をつけただけのものを縦に並べてみた(意図的に連続的に並置)のが最初の作です。

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この時点ですでに、「ストーリーに見えそう」というコメントをいただきました。厳密に言えばこっちが考えてないのだからストーリーはないんですが、もちろん見えてしまうものは自由に見ていただいてけっこうなのです。正解はない、というか考えてないのですからw。

一応バラバラな4つの絵にならないように、ぜんぶのコマに股旅を描いています。この旅人が村をひとつ通り抜けたようにも見えますね。タヌキが着物を叩いているのはスルーしてw。

マンガという形(構成)と、読むほうのなにか意味を読み取りたいという業が合わさってこっちの思ってなかったモノが生まれるとしたらこれは面白い。

2作目は「飯田橋」という固有名詞があるために背景を説明的に描きました。

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これに関しては「市ヶ谷からみた飯田橋ですね」という嬉しいコメントをいただきました。絵をそのまま受け取ってもらえたわけですね。なんだか妙に気に入ってツイッターでシェアしてくれた方もあるようですが。

こういうのはちゃんと絵を入れると1ページのマンガ、物語の導入部分にでも使えそうな感じですが、うっかり読んでいると回文だと気が付かないかも知れません。あんまりデキのいいのはダメだなと感じました。

で、3作目はちょっと苦しいのにしました。

朗読聞く道路

こういうオジサン(男性に限りませんが)昔は飯田橋にもいましたw新宿や池袋にはもっとおられたようですね。いましろたかし先生の『デメキング』などによくこういう詩人が登場しますが、当方が見たのはその残照でありましょう。

これには「絵を入れるとそれっぽくなる強み」というコメントをいただきました。うん、かなり苦しい回文なのですが、これでもなんとなくそういう場面が見えてくる。当方の思い出補正も入ってしまったようです。

ただ狙いとしては「無意味と無意味と伝えてみたい」なので、それじゃあイマイチだなと感じました。当方、これでけっこう自作の判定に厳しいほうwです。

(ただ雰囲気は気に入っていて、たしかにこういうオジサンを4コマ目のようなフクザツな表情で見ていた気がします。「なんなんだろう」「暑いのに」「どっからくるのそのパワー」的な…数秒後「結果、聞いてるし俺」と思うわけです)

こうなるとしっとり読ませてはいけない、と感じました。

いやそういう雰囲気モノもアリだとは思います。たとえば当方が作ったちょっと渋い回文に「飯の時間 家事の〆め」がありますが、これをマンガにするなら家族の様子をほのぼのと描くべきだと思う。ただこれにはハッキリちゃんと意味があって、今の目的とは違います。

なので4作目は勢いを付けました。

玉ねぎどんこ

当方、ふつうに20ページのマンガを描くときでも大オチを生かすより、小ネタの連発が武器です。ボクシングで言えばパンチ力がないので手数で勝負するタイプですねwこれは会話に回文2連発、ワンツーといったところ。

ここでやっとあるイラストレーターさんから「これは無意味ですね」の評をいただきました(^^)

絵的にはストーリーを想像しやすいマンガですが、勢いが伝わったようで嬉しかったですね。くだらないとわかってもらうためには誇張しなくてはいかんと強く感じました。

実はこのマンガを描くときはこの男性のほう、中華屋の下働きで野菜の皮むきばっかりやっているのだろう、でも長年の努力が認められて次は「醤」の研究にでも入るのか「どんこ」を買いに来た、最後のドヤ顔は「俺、次のステップに入ったよ!」という誇りの表れであろう…などと当方まで最初全く考えてなかったストーリーに足を取られそうになりました。コマが割ってあること自体の威力ですね。「玉ねぎね、また」「今度はどんこ」だけから料理マンガ短編一本描けそうな気になってくる。これはこれで面白い発見です。

で、最新作は苦しい回文勢いでやってみようと思いました。3と4の合わせ技です。

空手の星

空手の星というパワーワードにだいぶ救われましたが、狙い通りのモノが描けた気がします。ストーリーがありそうでない。いきなり絵を描く必然がまったくない。そこが気に入っています。こういうのは頭のカタイ当方では、最初から狙っては描けません。

これもどなたかがツイッターでシェアしてくださったようですが、原作ファンに怒られないかすこし心配ですw。

ちなみにこの回文は「空手の星」をなんとなくさかさまにしてみたら「しほのてらか」だったので、「しほ」は名前っぽい、「てら」はある、と気づいて考え付きました。偶然ですね。「志保の寺か空手の星」だけでもいいんですが、動きがないので「描く」という動詞を入れました。

…これを友人の漫画家K氏に見せたところ、「空手家がマンガのアシスタントだったのか」という感想が来ましたw深読みですw。別にマンガのアシスタントでなくても寺の絵を描くことはあると思うのですが、そもそもなんでいきなり絵なんだよと言われたらこちらも何も考えていない、回文に合わせただけなのです。

ただ友人も漫画家であるため、キャラクターの行動には合目的的な整合性があるはずだと感じ、ない設定まで考え出したのでしょう。

無意味なんですけどw


…ふだんマンガを描くときは「こういうことを伝えたい」目的があり、それがうまく伝わらなかったり誤解されたりすると、とても残念な気持ちになるのですが。今回は読んだ方がどう解釈するのかが楽しみで、面白い実験になったと思います。

また自作の回文をマンガにするというのはいわゆる「お題」になり、構成を考える練習、また絵を描くきっかけになりました。仕事以外で練習するとなると、けっこう「何をどう描けば飽きずに練習できるか」は悩むものです。なんも手つかずで貴重な休みをつぶすこともあるwその点これは続けやすいですね、回文も自作ですから。


…ながながと考察しましたが、また機会があったら描いてみようと思います。回文マンガ。


お粗末様でした<(_ _)>


(…しかしこんな長文読む人、いるのかしら)




たくさんのサポートを戴いており、イラストももう一通り送ったような気がするので…どんなお礼がいいですかねえ?考え中(._.)