【散文】虚しいときにはおやつをこさえて


デジタル機器が一般家庭にも普及を始めた90年代以降、その急速な発展が現在進行形で加速を続けるなかで、世の中のいろんなことのスピードも上がっている気がする。生活者である私たちには分からない程、さりげなくスルッと。

そして人はSNSやその他多くの情報媒体を通して、自分には無関係なはずの、遠い出来事に意識を持っていかれることがこれまた無自覚に増えた。でも私たちは所詮人間。どんなにデジタルの質がアップしてスピードが上がっても、人間である私たちが一日に抱えられるものが増えるわけでもなく。次々立ち現れては通り過ぎていく本来どうでもいい事柄に、どんどん集中力は奪われて、本来的に持っていたはずの集中できる時間すら短くなっていることに気づかない。自分の内面に目を向けたり、何かを思考する時間が無くなっていることに気づけない。

そしてある時、例えば急に予定がぽっかりと空いてしまったときなんかにふと思う。「どうしよう、暇だ。何かあるはずなのに、自分には何もないじゃないか」と。いつもいつも離れたことにばかり意識を向けているから、いざひとりになると、途端に何とも言えない恐怖に囚われる。自分が何を好きなのか実はよくわからないし、今この時を味わうことにも、ゆっくり時の流れを感じることにもいつのまにか不慣れになってしまったから。


だからここで私たち現代人の多くは、デジタル機器がもたらしてくれる薄い繋がりや情報に走る。あるいは被害妄想という救いのない牢獄に自ら駆け込む。そうすることで、先ほど感じてしまった不安を一時でも忘れることに務める。


けれど、そう、その不安や恐怖から逃れられるのは一時だけのことであって、真の解決にはつながらない。「空っぽな自分」という、ともすれば致命的にもなる人生への絶望から根本的に脱却するには、今を満足のいくものにするしかないんじゃないだろうか。そのための一番簡単な第一歩に、私は「家事」というものを丁寧に行ってみることを挙げたい。


家事は、人間が自らの頭や手足を使って人生を形成する基本にして原点だと思われる。今目に映るもので、必要ないものを処分してみる。家の中でどこか一ヶ所に狙いを定めてピカピカにしてみる。お米の美味しい炊き方を調べてレシピ通りに実践してみる。食べる時には必ず座ってひと呼吸置いてから「いただきます」と手を合わせてみる。布団を干してシーツをかけ替えてみる。簡単なお菓子を手作りしてみる。お気に入りの洋服を手洗いしてみる。お財布の中を整理して汚れを拭き取ってみる。などなど。


普段は面倒でやろうと思わないことを、あえて時間をかけて何かひとつ、丁寧にやってみる。それはデジタル機器、さらには産業革命以前の人間たちの今に集中する感覚を追体験する機会となる。今を感じて生きるゆっくりとした贅沢な時間は、やがて自分の内側の声に耳を傾ける余裕を生み出す、と言うより、自然と潜在的な自分の純粋な望みが湧き上がってくるんじゃなかろうか。あるいは、その声に気づけるくらいの感性を回復できるとも言えるかもしれない。


何はともあれ、自らの手で自らの身の回りを整えるのは、自分が今ここで生きているという自覚を、達成感や満足を覚えて感じることができる、もっとも身近な方法ではないか、と実感済みの一現代人である私は僭越ながら申し上げたい。まずはなにかひとつでいい、自分の力でやってみることが大事。


確かに外からの情報は日々目まぐるしく、一見すればそれらは常に新鮮で飽きが来ないように思えるかもしれない。でもそれこそが、実は最大の飽きや疲労の原因なわけで。それよりも、四季の節目や伝統的な暦に則ったイベントを手作りしてみる方が、よっぽど今この時を生きる喜びに満ちると思うのだ。


とりあえずこの時期は、おやつに羊羹でもこさえてみる、とか。

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