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Q. どんな教師がよくない外国語教師?
A. ①知識・技量がない、②指導が下手、③魅力・熱意がない
苦手だった科目もあの先生の授業だったから好きになった。
苦手な勉強もあの先生のおかげで好きになった。
この先生は面白いからとりあえず授業にでてみるか。
誰しもこのような経験がないだろうか。あるいはその逆もあるように(好きな科目だったも教師と水が合わずに断念した)、何を学ぶかということは「誰に学ぶか」に大きく左右される。この点では物理も数学も歴史も、そして外国語もまるで同じだ。
この問題に対するアプローチは複数ある。ここでは「こんな教師はイヤだ」という観点を試してみたい。
暗い地面の下で種が発芽する際、なぜ植物は地上が分かるのか。それは植物の種は重力のかかる方向を感知し、反対方向に向かって発芽する仕組みなっているからだ(詳しく知りたい人は「オーキシン」という植物ホルモンを調べてみてほしい)。
「行かざるべき方向」が分かることで「行くべき方向」が判明する。まったく素晴らしい知恵である。我々もこの偉大なる植物の知恵にならうとしよう。
【①知識・技量がない】
まずはこれだ、その外国語に関する知識と技量がない。たとえば英語。なぜ英作文において語順の重要性が百家争鳴に説かれるのか、なぜ「基本5文型」の理解が必須とされるのか。これに満足に答えるには「統語論(Syntax)」と呼ばれる言語学の知識を要する。
英語を教える教師のなかで言語学に関する書物を手にとった人物はどれくらいいるのだろうか。
あるいは発音やイントネーションがあまりにも標準的な発音とかけ離れているというのも困りものだ。今や現地に行かずともネイティブの発音に触れる機会はいくらでもあり、ひと昔前に比べて発音を矯正しやすくなっているはずである。
【②指導が下手】
そしてこれだ、教え方が下手。いくら膨大な知識量を誇り、ネイティブ顔負けの流暢な発音を会得していようとも、それを生徒に伝える術が拙いということではなんとも心もとない。
教える内容や予想される質問をあらかじめ押さえてこない、自分が何を教えたいのか理解していない、学習目標を示さない、学習者のレベルに見合わない試験問題を課す。あるいは手に余る質問が生徒から出たら適当にごまかす。
こうした教師に出会ってしまったら、クラスメイトと組んで改善要求を伝えるか、直らない場合は早々に他の授業に移ることを検討してもいいかもしれない。
【③魅力・熱意がない】
「お前に言われたくない」、「あんたの言うことは信頼できない」、「ついて行っても面白いことがなさそうだ」、教え子にそう思われた刹那、教師は終わるといっても過言ではない。「隊長殺すにゃ刃物はいらぬ、部下が全員辞めりゃいい」[1]とはけだし名言だ。
教えられる側がそう思うに至るのには往々にして相応の理由がある。粗末な知識が露見して疑念や不安を持たれる、力量を超えた質問に対して「分からない」と認められない、あるいは熱意のかけらもないような態度をとりつづける。
些細ながっかりの積み重ねは、徐々に、しかし確実に学ぶ意欲を減退させ、教師と生徒という「学習の舞台装置」を支える信頼や信用を失わせる。理不尽な失望はまずないといっていい。
能楽の大成者として名高いかの世阿弥は、著書『花鏡』の中で「離見の見」という言葉を残した。「離見の見」とは演者が自らの身体を離れた客観的な目線を持つということ、世阿弥はこの言葉で演者の自己満足を厳しく戒めたという[2]。
教師とて同じである。以上の3点は何も選ぶ側だけが意識するべき問題ではない。教える側も自己点検を欠いてはならない。教育能力ではなく研究能力を重視して登用され、教師としてろくな研修もなしに教壇にたつ大学教員の場合、特にそうだといえるだろう。
結論:よい学びはよい教師から
[1] 吉崎観音『ケロロ軍曹』角川書店、第3巻。
[2] https://db2.the-noh.com/jdic/2013/07/post_377.html
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