見出し画像

Q. リーディングよりスピーキングの方が重要じゃない?

A. 多くの人にとって即効性があるのはリーディング。そもそも二項対立で考えないこと。

  

別の記事でも書いたが、日本の学校英語はスピーキング/リスニングではなくリーディング/ライティングに伝統的に主眼を置いてきた。「小中高で10年くらいやっても英語が話せるようにならない」のは哀しいが当たり前である。
 

さてリーディングとスピーキングだが、究極的にはどっちも大切だ。言語学習というのは四輪車を動かす作業であって、4つのタイヤ(話・聴・読・書)が揃っているのが理想だからだ(優秀な一輪車というのもいいと思うけど)。今回はリーディングの良さについて考えてみよう。

 

 

【①一人でいつでもできる】

スピーキングには相手がいる。ライティングも誰かに宛てて書く(たとえばスペイン語で誰にも読まれない恋文を書く、というのも面白いかもしれないが)。リスニングは一人でできるが、「いつでもどこでもすぐに始められる」のはリーディングに軍配が上がる。

 

【②素材が豊富】

人類が生み出してきた文書は、動画よりもまだ遥かに多いだろう。英語で書かれたWEBサイトはもう一生を費やしても読み切れない。外国語でのリーディングは確実に世界を広げてくれる。

 

【③試験の花形】

学校は特にそうだが、外国語の試験といえば基本的にリーディングが中心の試験である。リスニングは問題を作るのに手間がかかり、ライティングは採点が厄介で、スピーキングは実施に時間がかかる上に試験官の確保が難しい。まずはリーディングで安定した点が取れるようになるのが上達のコツの一つだ。

 

【④日本語では手に入らない情報が得られる】

②と重なるが、世界には英語で書かれた文書、英語でしか書かれていないものというのが星の数ほど存在する。いち早く海外ニュースの速報を理解できることもあるだろう。あるいは日本では報道されていない事柄について知ることもできるだろう。


さてここまでリーディングの良いところについて述べてきた。そして冒頭では日本の英語教育がリーディングを重視してきたという話もした。だが実際のところどこまで日本語母語話者が外国語(特に英語)を読めるかというと、実は心もとない。それは最近の風潮がスピーキング/リーディング偏重だから、というわけでもない。

 

例えばこんな話がある。

 

「近頃の学生は語学が出来ない。参考書一つ碌に読めやしない、手紙一つ書けやしない、会話一つ満足に出来やしない、という声は近年実によく耳にする。事実私も今の学生諸君がそんなに出来るとも到底お世辞をいう気にはなれないが、非難がもっと極端になると、中学から高等学校まで一体何をしているのだ、そんな効果の上がらんものなら、ええい、いっそよしてしまえ、というような頼もしい国粋論にもなってくる。だが一体外国語学習というものはそう頭から当然効果の上がるべきものと決めてかかっていい簡単なものだろうか。あるいはまた外国語がペラペラ喋れて、スラスラ書けて、本国人並みに読めることがそんなにその人の優秀(メリット)を示すものなのだろうか」

 

 

何やらよく聞くような内容だが、この文章が書かれたのは1938(昭和13)年[1]。学習環境が整っていなかったとはいえ、今より遥かに読み書き重視だった時代でもこれである。

 

明治以来、日本の外国語教育はコミュニケーション重視派と読み書き重視派で160年近く論争を続け、決着はまだついていない。「ろくに外国語ができない」というのは今に始まったことではない。

 

さてこの本の紹介も面白いのだが、中野の主張は「少なくとも読む力だけは養っておきたまえ」(同23頁)、という一文に集約されている。

 

時代は変わり、学習環境も教材も変わった。だが自信をもって英語を読める人がどれだけ養成されただろうか。

 

 

「語学を七年もやって最低限度の読書力位出来ないようでは、そしてその関心すらないようではいっそ臍でも噛んで死ぬことだ」(同28頁)。

 

結論:まず読めるようになること。



[1] (中野好夫「語學-如是我觀」中野好夫他『學生と語學』矢の倉書店、1938、9頁。旧仮名旧漢字表記は読みやすいよう改めた) 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?