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自分の中の基準

最近ハードルを越えられない。

それはもちろん物理的なハードルではなく精神的な?ハードルでありまして。

noteを書くに当たっても、自分の中のハードルというのがありまして。

そのハードルを越えることができなければ、そのnoteはボツになる。

4月はとうに過ぎ去り、とうとう5月になってしまった。

4月の一ヶ月間は自分のハードルを越えるnoteはついに生まれなかったということになる。

自分の中の思いの消化とか、記録という使い方をしているのだから、ハードルを設ける必要はないのでは?

確かにその通りだ。ただ自分が気に入らないという一点のみである。

多少読んでくださる人のことを考えているという節もなくはない。

だがどこの誰かも分からぬ、このような何が言いたいか分からない文章を読みたいだろうか。

つまりそういうことである。

読んでもらうというより、やはり自分の思考の記録という方が近い。

だがその中でも公開している以上一定数読んでくださる人はいるわけで。

いざ自分がそういう読者の立場になったとき、このnoteを読んでどう思うかとか、ライターでもないのに考えてしまうわけである。

その結果、簡単にボツになってしまうのだ。

5月に入ってさえ、なかなかいいnoteが書けないという話をしているのだから向いていないと言えるかもしれない。

ただこうして書かずにはいられなかった。

定期的に、といっても大分不定期ではあるが、文章に起こすことによって自分の中の気づいていなかった考えなどを可視化する必要があるのかもしれない。

文字では伝わらないこともあるが、文字でしか伝わらないこともある。

僕はこの文字でしか伝わらないということに大変重きを置いている。

本を読んだときに、自分の言いたかったことはこれだ!という経験がそう思わせたのかもしれない。

あるいは、自分の中に漂うもやもやとした消化しきれない思いを溶かしてくれる本に出会ったときかもしれない。

いつ、どのようにそう思ったのかは明確でないのだけれど、僕は文字というか、文章の力を信じている。

そういう意味ではnoteを書く行為は僕にとって、文章の力を再確認する儀式のようなものかもしれない。

ちょっと何言っているか、自分でも分かってないけど。

自分の中のハードルを越えるような文章を書きたい。

いつも書きたい書きたいと、内容のないことを言っているような気がしないでもないが、そうせずにはいられない。

表現を形にする術がまだ僕には伴っていないことを暗に伝えたいのかもしれない。

まだまだ書きたいことはあるが、結局ぼんやりと頭の中にあるだけだ。

書きたいことはいつもハードルの手前にふわりふわりと浮いている。

僕はそれを掴んで一緒に越える必要がある。

ただハードルを越えるには、十分な助走と、飛び越える技術がまだ足りないらしい。

こうして駄文を生み出し続けることがどうやら助走であることが、僕には朧げに分かっているのみだ。


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