伝えるということ
広げたnoteは三日くらいそのままにしていることが多い。視界に入れば、何か書いたり、振り返るために前のページを読んだりする。
だがしかし一週間過ぎるころにはいつの間にか引き出しにしまってあってそれが広げられるのはいつになる頃やら見当もつかない。
気の赴くままにというやつだろう。
今回もそんな感じでnoteに戻ってきたというよりは、ふと立ち寄ったという感覚。
ずいぶん触れなかった割には居心地がよい。もう少しくらいはnoteに浸っていたいと思う。
何より変わらずそこにあり続けてくれることが喜ばしい。
全然見も聞きもしない方たちがここにいることを確認するだけで心が温かくなってくるのだ。
どうしているかも分からないのに、たまに生きているのか死んでいるのか気になる人は大概noteに生息していると思っている。
それも間隔をあけず投稿をしている人などを見ると、ただただ感心する。
心の持ちようは、実際の行動や習慣によって変えていけることを身をもって体現してくれているのかもしれない。
僕の場合は、気分に依るところが大きい。習慣づけられたらいいと思うのだが、noteを続けることが自分にとって何がどういいのか消化しきれない部分があるのでおもいつめない程度に気ままに訪れている。
鬱屈しているときにこそ、この行き場のない感情を書き留めておきたいと思うのだがそううまくいかない。
行動や感情をコントロールするにはまだまだ訓練が足りないらしい。
最近は伝えることの難しさを日々実感することが多い。仕事の性質上、近くにいてもチャットをすることが多いのでいざ言葉にすると半分も伝わらないなんてことがざらにある。
あれこんなに話すのって難しかったっけ?思考と実際があまりにもかけ離れている。
誰しも持っていると思うのだが、頭の中には自分語なるものが存在していてそれを変換して言葉に変えている。
視覚や聴覚、匂い、雰囲気。その全てから必要な分を抽出して言葉に変換する作業。
この必要な分というのがミソだ。
僕はなにかと全部を伝えようとしてしまう。だがそれには限界があるので、必要な分だけを切り取って渡してみると、これまた伝わらない。
この間、全部ではなく一部でもなく、必要な部分を必要なだけ渡すことができたらなんていいのだろうと思うのだがこれもそう簡単にはうまくいかない。
ただただ考えすぎなだけだけど、それができたらいいなと思っている。
できたらいいななので、完璧にできるようになれるとはもちろん思っていない。
それはこうして自分が書いているのに、自分自身にすら伝えられない欠片があるからだ。
はたしてnoteを開くのは、それらこぼれ落ちた欠片を拾い集めるためなのかも。
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