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映画『市子』と杉咲花さん

去年の7月、映画『市子』の特報映像と杉咲花さんのキャストコメントを見た。

衝撃だった。

特に杉咲花さんのコメントは凄まじかった。

その時の私はボーッと漠然と生活することしかできなかった。
ボーッと漠然と生活するのに精一杯だったから、それでよかったのだが、それでもやはり、あの特報とコメントには射抜かれた。
一発蹴りを入れられたような感覚。それくらい衝撃的だった。

ここには載せられないが、杉咲花さんのキャストコメントを是非読んでいただきたい。

きっと私は、「市子の息吹に手触りを」と願う杉咲さんの“息吹”に触れたのだ。



それからというもの、私は杉咲花さんのインタビューを片っ端から読み漁った。

言葉選びが美しいのはもちろん、そこに宿る力強さや祈りのような思いがひしひしと伝わり感動し続けた。

インタビューのどこを切り取っても尊敬しかない。

どれもリアルで重みがあって、分厚い言葉だらけだったのだが、特に印象に残っている言葉がある。


「わからない」という感覚が根底にありながらも、他者と共振し接近を試みる(大意)

というものだ。

杉咲花さんは、撮影の中で「他者はどこまで行っても他者である」ことを実感したそう。


(ここで並べている杉咲花さんの言葉はあくまでも私が並べているわけで、その中に私の解釈も含まれている可能性が大いにあるので、実際に読んでいただきたいです)


この言葉を目にしてからというもの、私の他者への視線は変わっていった気がする。

すごく腑に落ちたのだ。


「世界に同じ人間など一人もいない」というような言葉はよく目にしていたし、理解していたつもりだった。

でも私は理解していなかったのだ。

他者のことを完璧に理解することは難しい。また、自分のことを他者に完璧に理解してもらうことも難しい。

なのに、完璧に理解したがっていたことに気づいたのだった。

一人一人、違う感覚を持ち合わせていて、そんな中で世界はできている。
一つ一つ違う“個”の集まり。
皆が皆、全てを理解し合うことは難しいこと。
だけど、それでも理解し合いたいと願うこと。

そんな風に世界を見るようになった。

自分は自分、他者は他者と認識することで、自分へのリスペクトも他者へのリスペクトも、より深く抱ける気がした。



映画は地元では公開されず、映画館では観られなかった。

そして今日、やっと観ることが出来た。
(⚠︎ここからの文は感想とともに、少しネタバレがあるかもしれません)

正直に書くと
苦しい、辛い、怖い、目を背けたい、受け入れられない、なるべくこの世界から遠くの場所にいたい……
そう思ってしまった。

市子を受け入れられない。

市子はどうすれば良かったんだろう?…そう思うこと自体が傲慢なのか?
では、社会はどうあるべきなんだ?なんて、私の小さな頭では考えが及ばない。ぐるぐると考える。

私は本当に無知だ。そしてお気楽だ。
心にザラリとしたものを感じることで精一杯だ。
きっとこの先この映画を何度も観ることは苦しくて出来ない。

でも、今回知ることが出来た。
それは、「知る」ということは、私にとってとても大きなことだ。


“市子の息吹”を感じたんだ。


市子の
「みんなが上見てるとき、なんか安心すんねん」
「夕方になったら匂いするやん。幸せそうな匂い。憧れの匂い」
という言葉が忘れられない。

市子の感性というか、本来の姿が垣間見れた気がしたから。
本来の姿なんて、本当は言っちゃダメなのかもしれない。

でも、市子の声でこの言葉を聞けれてよかった。

今はそう感じている。

こんな感想しか抱けない、「ちっぽけな自分」も感じることが出来た。



そして何より、私は、杉咲花さんに心からの感謝を勝手に猛烈に感じております。
ここで記して自分を落ち着かせたいと思います。

心から、ありがとうございます


映画『市子』、凄まじい映画体験でした。

ずっと考え続けることはできませんが、私は市子を忘れることもできません。
引き続き、(もちろん息継ぎしながら)ぐるぐると考えていこうと思います。

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