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ジョン・ボン・ジョヴィへ捧ぐ詫び状みたいな感謝状

☆はじめに☆

本稿は、BON JOVIの名前すら知らない、という人には終始意味不明な内容となっております。ごめんなさい。

また、カセットテープをまったく知らない世代の方や、自分語りが苦手な方にも不向きです。

上記を踏まえ、それでも読み進めていただけるのであれば、これほどうれしいことはありません。

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『BON JOVI(ボン・ジョヴィ)』。

1983年、ボーカルのJon Bon Jovi(ジョン・ボン・ジョヴィ)を中心に、アメリカ合衆国ニュージャージー州で結成。

翌84年にファーストアルバム『Bon Jovi(邦題:夜明けのランナウェイ)』でデビュー。

86年発表のサードアルバム『Slippery When Wet(邦題:ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)』が全米ナンバーワンに輝いて以降、全世界にその名を知られる言わずと知れたモンスターロックバンドである。

 

彼らはいわゆる『逆輸入バンド』で、本国アメリカで売れる前から日本で売れまくっていた。

ファーストアルバム『Bon Jovi(邦題:夜明けのランナウェイ)』が本国で鳴かず飛ばずだったデビュー間もない1984年8月。

日本開催のロックイベント『SUPER ROCK '84 IN JAPAN』に招かれた彼らが、日本のファンの熱狂ぶりにうれしい驚きを味わったというのは有名な話だ。

 

そんな状況だったので、彼らはわりと早い段階で日本のテレビCMに出演していた。

現在アラフィフ以降の世代の人ならば、きっと誰もが以下のCMをご覧になったことがあるはずだ。


 ☆富士フイルム「AXIA」CM



☆SANYO 「ZooSCENE」・「S-VHS」CM


随分と前置きが長くなってしまった。大変申し訳ございません。

 
これらのCMがヘビロテされていた1988年当時のわたしは11歳。小学6年生だった。

テレビから流れてくるかの名曲『Livin' On A Prayer』に、いたいけな11歳のやまだ うめはそれまで経験したことのない衝撃を受けたのである。

 激しさと美しさと切なさを併せ持つ魅惑のメロディー。

力強くも繊細、それでいて色気を感じさせる独特の歌声。

——なんて素晴らしい曲なんだろう

——ぜひこの曲を手に入れたい

 だが、インターネットという言葉すら一般には認知されていなかった1988年当時。田舎の一小学生が、テレビCMで見聞きしただけの曲を手に入れるのは、とてつもなくハードルの高いことだった。

まず、そもそもアーティスト名と曲名が分からない。

CMのクレジットやナレーションから、どうやら彼らがボン・ジョヴィという名のグループらしいことは予想できたのだが、それ以上の情報にアクセスすることは不可能だったのである。

 

仕方がないので、わたしは親の買い物に付き合うついでにレコードショップの洋楽コーナーをチェックした。

さすがはCMタイアップ中の人気バンド。ボン・ジョヴィのカセットはすぐに見つかったのだが、ここで新たな問題が発生する。

というのは、その時点で彼らのカセットテープアルバムは3本発売されており、なおかつわたしはお目当ての曲のタイトルを知らなかったのだ。

曲名にアクセスする手段がない以上、一か八かで1本ずつ購入し、お目当ての曲の有無を確かめるしかすべはない。

しかし当時のボン・ジョヴィのカセットテープアルバムは、1つあたり2,500〜2,800円ほど。うまい棒1本をドキドキしながら買うような小学生が気軽に手が出せる代物ではなかった。

 

そこでわたしは考えた。ない知恵を絞って考えた。

そしてとうとう1つの答えにたどり着いたのである。

 

——何かのご褒美として親にゴリ押しすればいいんじゃね?

 

当時、わたしは唯一の習い事としてそろばん(珠算)へ通っていた。

そろばんの級を進めるためには検定試験に合格する必要があり、それはわたしにとってそこそこ難しい。

努力しなければ確実に落ちるが、頑張ればそこそこの確立で合格可能。ご褒美作戦を実行する上でまさに絶妙な難易度だったのである。

 

さっそくわたしは母へと話を持ち掛けた。

「今度のそろばんの試験に受かったら、ボン・ジョヴィのカセットを買ってください」

今でも不思議なのだが、ボン・ジョヴィの存在すら知らなかったはずの母は、それでもわたしの申し出を快諾してくれた。

 そんなこんなで、11歳のわたしはゴリゴリのロックバンド『ボン・ジョヴィ』に思いを馳せながら正座でそろばんをはじき続けるという、なんともシュールな日常を過ごすことになったのである。

 

話が前後して恐縮だが、ここで当時のわたし自身について記しておきたい。

 

もうお気付きかもしれないが、わたしはひどく周囲から浮いた子どもだった。

物心ついたときから周りになじむことが難しいと感じていたし、同級生には敬遠された。

子どもだけではない。

親を含む大人たちの対応は、「あなたは1人でも大丈夫だね」と理解あるふうを装いつつ距離を置くか、あからさまに冷淡かのどちらかだったので、わたしはひたすら大人が怖かった。当然ながら甘えた経験もない。

その理由も今なら分かる。

わたしはとてもプライドが高く、空気が読めず、自意識過剰かつ承認欲求が強い上にブサイクで、同級生からすると「何だか気に食わない、仲間はずれにしたくなるタイプ」。親を含め、大人からすると「かわいげのない子」「イライラさせられる子」だったのだ。

 

同級生たちに嫌われていることは嫌というほど分かっていたが、それでもわたしはみんなの輪に入りたかった。『誰にも好かれない』という圧倒的な事実を、そして終わりのない孤独を受け入れるには、当時のわたしは幼すぎたのだと思う。

しかし、どんなに切望しようとも、あこがれの輪がわたしを受け入れてくれることはなかった。それどころか、輪の中のたくさんの目は、チラチラとこちらを見つつ内緒話をして笑っている。

仕方がないので、わたしは毎日ひたすら本を読んでいた。物語の世界はどこまでも広く、誰もわたしを嫌わず、決して傷つけられることのない安全な場所だったから。

——人生は長いなあ。あと何十年、こんな気持ちで生きていくんだろうなあ

今後状況が変わる可能性など微塵も感じられず、幸せな人生なんて夢物語だと諦観する。そんな孤独な日々の中で出会った心を揺さぶる存在こそ、ほかでもないボン・ジョヴィの音楽だったのである。

 

果たしてそろばんの検定試験に合格したわたしは、念願のボン・ジョヴィのカセットテープを手に入れた。

あとで分かったのだが、最初にゲットしたのはセカンドアルバム『7800° Fahrenheit』。

『Livin' On A Prayer』が収録されているのはサードアルバム『Slippery When Wet』だったので、残念ながら目的達成はかなわなかった。

——ちくしょう外したか

気を取り直して次の検定試験に挑戦し、1/2の確立で手に入れたのはファーストアルバム『Bon Jovi』。これも『Livin' On A Prayer』は未収録。

——ぐぎぎぎぎぎぎぎ……!!!

そして迎えた3度目の正直。とうとうわたしはサードアルバム『Slippery When Wet』を手にし、『Livin' On A Prayer』を自由に拝聴する栄誉にあずかったのである。そろばん受かりまくりである。

 

さて、このカセットテープ。

信号化された音楽を記録した磁気テープをコンパクトケースに収めた、アナログ式の記録・再生媒体である。

1982年には、すでにSONYとフィリップスによってCDが発売されていたし、わたし自身、中学生になったときにはCDを買っていたと記憶している。

しかし、小6当時の自宅にはいまだCD再生機器は存在せず、選択肢はカセットテープのみだった。そして恐ろしいことに、自分の意思で音楽を購入するのが初めてだったわたしは、カセットテープの仕組みを全く理解していなかったのだ。

 

何を隠そう、11歳のわたしは、【カセットテープの購入=好きなアーティストにいつでも好きなタイミングで好きな歌を歌ってもらう権利の購入】だと考えていたのである。

 

つまりはこういうことだ。

わたしが『Livin' On A Prayer』を聞きたいと思い、カセットデッキのボタンを押せば、なんらかの方法でアメリカにいるボン・ジョヴィに「『Livin' On A Prayer』を演奏すべし」と指令が飛ぶ。そして彼らは演奏を始め、その音声が自宅のカセットデッキを通じてリアルタイムで流れてくる。

 

そんなバカな話があるか。

 

だが、わたしは一点の曇りなくそう信じていた。そもそも、誤解だと気付くきっかけになるような会話をできる人が周りに存在しなかった。

そんなわたしが、ひたすら聞きたいと望んだ『Livin' On A Prayer』の収録アルバムをようやく手に入れたのである。何が起きるかは想像に難くない。

 

数日間、再生・巻き戻しを繰り返して『Livin' On A Prayer』ばかりを聞き続けたわたしは、やがて巻き戻しのたびに罪悪感を覚えるようになっていった。

「ジョン、またこの曲かよって思ってるよね……」

「もう疲れちゃったかな、歌いたくないかなあ……」

11歳のわたしの脳内には、はるかアメリカのスタジオでひたすら『Livin' On A Prayer』を熱唱し続けるジョンの姿がありありと浮かんでいた。

再生を繰り返すたび、脳内ジョンの顔に浮かぶ疲労の色が濃くなってゆく。額にはじっとりと汗が浮かび、サビのたびに顎が上がる。

一曲をフルで歌い切ったからといって休息はない。即座にテープは巻き戻され、そのわずかな時間だけがジョンに許されたブレイクタイムだ。トイレすら行けやしない。

 

自らジョンに試練を課しておきながら、一方で歌い続けるジョンが気がかりなわたし。

特に、『Livin' On A Prayer』1曲だけを無限リピートしている状況は、まるでジョンを含むバンドメンバーに対し「ほかの曲はたいして良くない」と宣告しているかのようで、わたしの罪悪感を強く刺激した。

——違うんだよ!違うんだよジョン!ほかのもいいんだけど、『Livin' On A Prayer』は別格なんだよ!

謎の気遣いを見せる幼いわたしは、彼らへの配慮として時折アルバムをフルで再生した。

もちろん、彼らのアルバムは素晴らしい名曲揃いだ。フルで聞くこともやぶさかではないし、何より彼らを傷つけたくはない。

——だがしかし、やはりわたしが聞きたいのは『Livin' On A Prayer』その曲なのだ。

欲求に逆らえない幼いわたしは、ほぼ無意識に『Livin' On A Prayer』を選曲し、再生ボタンを押す。再生しては巻き戻す。何回も、何回も、何回も。

 

連日何時間も熱唱を続け、すでに息も絶え絶えなジョン。

そんなジョンの脳裏に、やがてこれまで感じたことのない暗い思いがよぎる。

「こんなに苦しいなら、ロックミュージシャンになんてなるんじゃなかった」

「好きなときにトイレに行って、夜は休めて、週休1日はもらえる、そんな生活がしたかった」

「売れすぎマジしんどいワロタ」

だが、そんな思いを打ち消すかのように、ジョンは再び枯れかけた声を振り絞る。

彼は決して歌うことをやめない。どんなに疲れても、喉が痛くても、全力で熱唱し続ける。はるか東洋の島国で、彼の歌を求め続ける少女の思いに応えるために。

「ジャパンのガールに……僕の歌を………」

 

そしてジャパンのガールであるところのわたしによって容赦なくテープは巻き戻され、もはや何度目かも分からないあの特徴的なイントロが始まる。

エフェクター『トーキング・モジュレーター』を口にくわえ続けるリードギタリスト、リッチー・サンボラの体力ももはや限界に近い。

「オワオワオッワーオッワ オワオワオッワーオッワ……」

 

名曲である。何度でも申し上げるが名曲である。

何時間・何日リピートしても飽きることはないし、聞けば聞くほどさらに魅力が増し、聞きたい気持ちがより高まってゆく。

——それにしてもジョンはすごいな。こんなに歌ってるのに、歌声が全然変わらない。さすがプロだな

 

だからそんなバカな話があるか。


 ☆リッチーの「オワオワオッワーオッワ」:4秒ころ〜 


11歳のわたしは、ジョンに詫びながら『Livin' On A Prayer』を連続再生しつつ、カセットテープに同封されていた歌詞カードと和訳・ライナーノーツを隅から隅まで熟読した。

もちろん、歌詞を読もうにも英語は分からない。和訳を読んだところで11歳のわたしには「トミーとジーナがなんか大変そう」程度の理解しかできなかった。それでもなんちゃって英語でジョンと一緒に歌う時間は何よりも楽しいものだった。

そして忘れてはならないのが伊藤政則氏のライナーノーツだ。

メンバーとの信頼関係を感じさせる硬派ながら熱い文体。アルバム制作の背景やメンバーの期待や葛藤——。ライナーノーツを読んでいるときのわたしの心は、確かにアメリカの渇いた空気の中にいたのである。

 

余談だが、1988年といえば、かの光GENJIが全盛期を迎えていた時期だ。

周囲の同級生女子たちは、かーくんやあっくんの話題で連日めちゃくちゃに盛り上がっていた。推しの魅力を熱く語り合う彼女らはとてもキラキラしていて、とても楽しそうに見えたものだ。

けれどもわたしは彼女らの感情がまったく分からなかった。「何がそんなに好きなんだろう」としか思えない自分の面倒くささに心底うんざりしていたのである。

ごくたまに、気まぐれに話しかけてくる女子から「うめちゃんは光GENJIの中で誰が好きなの?」と尋ねられると、自分を守るために「かーくん」と答えその場を凌いだ。

「興味がなくて分からないんだ」「わたしが今好きなのはBON JOVIっていうアメリカのバンドなんだよ」そう口にしてはいけないことくらいは分かっていたから。

 

友達が欲しくて欲しくて、でもみんなに嫌われてしまうわたしを。親や先生に優しくしてほしくて、でも素直に愛情を求められなかったわたしを。ボン・ジョヴィの音楽は、ジョンの歌声だけは拒まなかった。

 

カセットテープの誤解がいつごろ解けたのか、正確なところは覚えていない。

ただ、「そりゃそうだよね」とすんなり納得したことと、「ジョンに無理をさせていなくてよかった」と安心したことだけは覚えている。

 

その後、中学生・高校生と成長していく中で、わたしは人との付き合い方を『自転車の乗り方』や『メイクのコツ』と同様に1つの技術として身に付けた。

外見の陰キャ感を少しでも軽減できるよう、身だしなみにも気を配った。

そのかいあって、今のわたしは以前に比べればそこそこ人付き合いができる。なんならフレンドリーを装うことすら可能だ。

 

しかし、結局のところ本質は何1つ変わらない。

仲の良い友達と過ごす時間はとても大切だし大好きだが、1人の時間はもっと好きだ。

人の気持ちの裏を考えて不安になるし、人から嫌われることが怖くて自分を見失うことも少なくない。

クライアントや同業のみなさまと直接会うことはもちろん、オンラインでさえ心臓がバクバク跳ね上がり、頭が真っ白で何を言えばいいか分からなくなってしまう。

もうアラフィフだというのに、あんなに努力したのに、せいぜいがこのていたらくなのだ。

 

でもいいんだ。

今回この雑文を書くにあたり、当時のボン・ジョヴィのアルバムをうん十年ぶりにフルで聞き返してみた。

35年近く経っていることもあり、「ちょっと懐かしさに浸ろう」程度の軽い気持ちだったのだが、実際に感じたのはあの頃のワクワクや興奮・感激そのままだった。

そして不思議なことに、当時の小さな自分自身をそっと抱きしめることができたような気持ちになったのだ。

 

あのころ、むき出しの粘膜のような傷つきやすい心を抱え、人生の長さに絶望したわたしは今、残された人生の短さに焦りを感じている。

誰にも好かれず、愛されないことがあたりまえだったはずのわたしの人生には今、わたしを愛し大切にしてくれる夫や娘たちと、気の置けないたくさんの友達がいる。

そして何より、本と音楽の世界にこもり、自分自身へ向けて無数の言葉を紡いだ時間が、ライターというかけがえのないライフワークへとわたしを導いてくれた。

 

改めてボン・ジョヴィへ、とりわけジョン・ボン・ジョヴィその人へ申し上げたい。

わたしの人生に存在してくれてありがとう。あなたの歌は、あなたたちが作り上げた音楽は、白黒だったわたしの世界に鮮やかな彩りを与えてくれました。

そして結果的に誤解だったとはいえ、何時間も連続で同じ曲ばかり歌わせてごめん。

脳内のジョンが苦悶に満ちた顔で、それでも疲れを感じさせないパーフェクトな歌声(あたりまえだが)を聞かせてくれたことは忘れないよ。

てかそもそも『カセットテープを買ったら遠隔生歌聞き放題』ってどんなシステムだ。セレブのサブスクか。

 

偉大なるボン・ジョヴィの歴史は続く。

そしてわたしの人生もまた続いてゆく。

 

わたしは幸せだ。

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