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『永遠と横道世之介 上・下』感想

 芸術に於ける永遠とは感覚であって、時間ではない。これが根本である。

高村光太郎『永遠の感覚』

どれだけささやかなものであれ、手元にある幸せがずっと続けばいいのに、という願いは誰しも共感する。世之介の予感は正しい。ドーミーの設備は高額の更新費用を必要とするし、上司である南郷の華やかな時代はあっという間に過ぎてしまう。そして哀しいことに、愛する人の命も等しく有限性のループに絡め取られている。

こうやって美味い卵焼きやおにぎりをみんなで食べていると、来年も再来年も、いや、もっといえばこの先ずっと春になれば、このメンバーで井の頭公園にやってきて、今日と同じように満開の桜を眺めているのではないかと思う。
そうなったら幸せだなーと。
ただ、すぐに気づきもする。こんな風にいつも思ってたなーと。

吉田修一『永遠と横道世之介 下』p.31

父親・母親は世之介のビッグチャンスよりも、それで多忙になることで健康を損ねないかのほうが心配だ。ドーミーで祝宴をひらく予定の世之介にとっては物足りない気もするが、長崎から上京してカメラマンだかウルトラマンだかになった息子は来年40歳。きっと両親も考えるところがたくさんあるのだろう。

隣に住む野村のおばちゃんにとってはもはや当たり前のことである。サザエさん家やちびまる子ちゃん家には病人がいないのだから、現実世界にあんな家庭があるはずがないのに「普通」という言葉でまやかしの永遠を見せつけられていることに私たちはなかなか気づけない。

南郷常夫にとって行為は交換である。消費者金融で利息と交換に自費出版した写真集から華麗なまでのわらしべ長者っぷりで時代の寵児ともてはやされる。交換で成り上がった「セルフメイド・マン」としての自負とプライドが彼をモンスター化させてしまう。「行っても邪魔だから」と価値を交換できないところには肉身の入院先でも顔を出さない。引きこもって自宅で見ていたのも通販番組で「終わりがないから」というのはなんとも潔い彼らしさだ。

ブータンからやってきたタシさんは贈与の人である。「誰かが幸せになれば私も幸せ」という価値観に世之介の「永遠」という感覚が通奏低音する。「永遠」という名前をつけた理由を示す世之介の手紙には 心からの、ありったけの祝福と応援と感謝とが筆致に表れている。二千花とのシリアスな会話は「おつり」という概念であまり(=交換の不成立)が暗示される。

一歩・二千花・世之介・永遠に連なる「命名」のエピソードに対比されるのは、秀千代、勉、あけみといった下宿ドーミーを形作った家族のヒストリーだ。「不思議ねえ。ずっとここにいたような気がするわ」(上巻 p.269)という秀千代は自分だけではなく「誰かの」居場所も作ることができる。その思いを受け継いだあけみが世之介の「在宅」という木札をずっと守り続けているのは偶然か。

「…俺もいつか死ぬんでしょうね」
 ふとそんな言葉が口から出て、世之介は自分で驚いた。もちろん日頃からそんなことを考えているわけでもない。
「まあ、死ぬでしょうね」
ただ、和尚はあっさりしたものである。
「…でも、安心なさい。あなたが死んでも、世の中はそれまでと変わらず動いていきますよ。二千花ちゃんが亡くなってからもそうだったように。…でも、もうあなたにならわかるでしょ?同じように見えても、やっぱり少し違う。二千花ちゃんがそこにいた世界と、最初からいなかった世界ではやっぱり何かが違う。それがね、一人の人間が生きたってことですよ」

吉田修一『永遠と横道世之介 下』p.337

幸福とは何か。一番大切なものは何か。世之介は「リラックスしていること」だと説く。彼が「永遠」を切り取った写真はどれもさぞ美しく、また誰かをリラックスさせているだろう。一歩が書いた新作は日常の些細なできごとで構成される。劇的なシグナルがなくても、日々のささやかな幸福を見落とさないように。そのためのヒントが散りばめられていると受け取った。


永遠の感覚 - 高村光太郎

『永遠と横道世之介』 - 上・下

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