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難民が日本の中で公正に受け入れられる社会へ。悔しさから始まる、不寛容を乗り越え希望へ変えていく力。

「こんな社会じゃ嫌……!これを変えずにしていいのか……!社会を少しでも良くしたい、悔しくて怒ってやっている部分はありますね」

認定NPO法人”難民支援協会”の代表理事である石川えりさんは語気を強めてそう話す。
優しい笑顔が魅力的な彼女が時折見せる力強い目線や表情は、難民支援の過酷さを物語っていた。

ルワンダの虐殺を知って

石川さんが難民問題に興味を持ったのは高校三年生の時だったという。

「自分が取り組むべき社会的課題は何だろう。そんな事を考えたのが高校三年生の時でした」

キリスト教系の中高一貫校に通っていたこともあり、社会と主体的に関わる意識はその環境下で培われた。そんな時、彼女はメディアを通じてあるニュースを知る。ルワンダの紛争である。当時のルワンダの状況を知った彼女は大きなショックを受けたという。

「自分は水道をひねれば水が出る、電気は途切れない、外に1歩出ても隣人に襲われることはない、何不自由無い生活を送っている。
その一方でルワンダでは、ツチを殺せと国営放送まで流され、フツの民間人もが武器を取り、知人、隣人を殺していく大虐殺が起きてしまった。そういったことにショックを受けました」

ルワンダ紛争では、50~100万人とも言われる大量虐殺による犠牲者と同時に、膨大な数の難民をもたらした。

「数十万人が隣国に逃げていくんですね。けれど隣国に逃げて行っても何十万という難民を受け入れきれず、そこで支援が届かなくて命を落とすんです。これは何とかしなくてはいけない。そう強く思ったことが、難民問題に関心を持ったきっかけでした」

そして直ぐに、ルワンダに対してできることは無いかと情報収集に努めた。新聞を読み漁る、ルワンダから帰国したNGOの報告会に参加する、といった情報収集を続ける中、ボランティア募集のチラシを見つけて連絡をした。

「中南米で平和を守る活動をしている、小さなNGO団体でした。そこで英語の文章の翻訳を手伝わせていただきました。高校3年生の夏でしたね」

ただその団体は、ボランティアを直ちに受け入れられる余裕のある大きな団体ではなかったという。
そこで代わりに、アムネスティ・インターナショナルを紹介された。そして高校3年生の12月、大学への推薦入学を決めていた彼女は、アムネスティ・インターナショナルでの活動をスタートさせた。
彼女はそこで大学4年生までの約4年間、ボランティアとして難民支援に携わることとなる。

日本で難民を専門で支援する団体が必要だ

アムネスティ・インターナショナルで石川さんは、まず最初に電話番の仕事を担当していた。そこでの電話対応での経験は大変勉強になったと語る。

「ちょこちょこ英語で電話がかかってきたんですよ。『○○さんと話したいんだけど今いますか?』とか。その人たちが難民だったんですよね。
私はルワンダに行って難民支援をしなきゃいけないと思っていたけれども、日本にもいるんだ!っていうのが難民の方との直接的な出会いですね」

当時アムネスティには、その本来の支援領域に収まりきらないほどの、難民からの多様な相談が寄せられていた。アムネスティは、全世界で活動するために、それぞれの国内で活動する人権課題を絞っている。難民の領域でいえば、”難民は拷問をうけるおそれのある出身国へ送り返されてはならない”といったことに関する手続きを行う業務が、アムネスティの支援の形だった。

しかし、当時の日本には難民の多様なニーズに総合的に支援を行う団体が存在しなかった。そのため、難民に関するあらゆる相談が、当時アムネスティに押し寄せていた。
こうした難民からの多岐にわたる相談に対応する中で、当時はまだボランティアであった彼女も、難民を専門に支援を行う団体の必要性を感じるようになったという。

「難民の抱える色々な課題に関して、包括的に対応できる民間の団体が必要なのではないか。そこで、アムネスティのスタッフや、そこで難民支援に携わっていた方々と話し合って、99年の7月に現在の難民支援協会が立ち上がりました」

難民支援協会の活動

難民支援協会とは、日本に来ている難民を支援する団体である。難民支援協会は、難民一人一人への直接的な支援、難民とともに生きていく社会の実現のための、政策提言や広報活動といった社会に対する働きかけという2つの柱を軸に活動を行っている。

逃れた先で難民と認定されることは、迫害の待つ母国に送り返されるかもしれない恐怖から開放されることを意味する。人としての権利を回復し、新たに日常を立ちあげるためには、認定を受けることは非常に重要だという。その認定のための支援を、難民支援協会では弁護士と連携して行っている。

「難民認定を得るための法的なカウンセリングを行っています。また、弁護士さんと連携して、認定が出るまでの平均約2年半の間に、法務省に対して自分が帰れないという客観的証拠を積み上げていかないといけないんですね。
その証明というのは本人がすべきことと日本ではされています。他の国では全部を本人に押し付けてはいけないってなっているんですけれど。

またその書類を日本語で提出しなければならないんですね。というので、法的なエキスパートとともに証拠を積み上げていく必要があるのです」

難民認定に向けて、熱意ある人々による支援が行われている一方で、日本で難民と認定されることは困難を極める。10493人が日本に難民申請を行い、難民と認定されたのはたった42人(2018年)という厳しい現実がある。これには、日本が国際的な難民の定義をせばめて解釈しているということが背景にあると語る。

「例えば、『デモに参加したから自分は帰国したら危ない。秘密警察に捕まり拷問を受けてしまう』といっても、日本では、『デモに参加した人は皆危なくなるかもしれないが、あなたは”特定されていないから難民ではない”』という風に解釈されるんですね。
軍事政権下のミャンマーでいえば『あなたはアウンサンスーチーではない』『その下っ端ならあなたは特定されていない』というように、日本は難民の解釈をギュッと狭めているんです」

2年半を生き抜くために

“2年半”。
前述の通りこれは難民認定の申請の結果が出るまでの平均年数である。この間を、日本に来た難民は極めて不十分なセーフティネットの元で生き抜いていかなければならない。
その一方で、政府からすぐシェルターが提供される訳でもなく、難民申請中は基本的に生活保護の対象にもならない。
また、少なくとも約8ヶ月は国民健康保険に加入もできない。こうした希薄なセーフティネットに置かれている難民が、支援を求めて事務所を日々訪ねてくるという。

「医療費が払えないとか、泊まる所がないとか、食べていないという方が日々いらっしゃるので、そういった方に対して食料をお出ししたり、シェルターを提供しています。
シェルターに泊まれないという時には、健康な男性には、女性やお子さんがいらっしゃる方、体調を崩してしまった方には、ホステルのようなものに泊まれるよう、宿泊費として単身であれば1泊3000円程度をお出ししています」

生き抜くための緊急宿泊支援

こういった緊急宿泊支援が必要になる場面は、けっして少なくないと石川さんはいう。

「緊急宿泊支援は、難民が日本にたどり着いた直後に必要になります。スーツケース1つ、バックパック1つで日本に辿り着き、どこに行っていいか分からない、お金があっという間に尽きて野宿している、といった方が事務所にいらっしゃいます」

前述の通り、難民申請をして国のシェルター等に申し込むといったことをすぐにできるわけではない。生活支援金を申し込むにしても、結果が出るまで平均して約1か月間かかる。

「その間を生き抜くため、私たちがシェルターを提供させてもらったり、シェルターが間に合わない場合には、ホステル代を支払ったりしています。そういったところで緊急宿泊施設が必要とされている状況ですね」

そして、難民たちが公的な扶助の乏しいこの2年半を自力で生き抜くために、住まいやお金、食料といった物資面での”与える”支援だけではなく、本人たちの力を”引き出す”支援も大切にしていると語る。
平均約2年半の審査期間を支える公的支援が限定的であり、私たちにできる生活支援も限られている以上、難民は自分の力で生き抜かなくてはならない。そのため、難民一人ひとりの意思を尊重し、本人が自分自身の問題と捉え、自力で問題解決していくことを促すよう努めている。

また、難民たちはただ支援を受けるだけではなく、社会で働き、社会に関わって生きて行きたいという思いが強いという。そういった難民たちに対し、難民支援協会は彼らが日本社会で生きていくための支援を行っている。

「少し生活が安定して来た難民のみなさんは、貰うだけじゃなくて、働いて社会の中で関わって生きたい、社会に貢献したいという思いが強いんですね。そこで、3か月間の日本語教育を行った後に就労支援に繋げていきます。
また、彼らが日本という社会の中で生きていくために、彼らとコミュニティの間の橋渡しというところでの、コミュニティ支援をしています」

社会の授援力を高めるために

難民認定がほとんどの場合おりない、ということが表すように、日本において難民が置かれている状況は極めて厳しい。こうした状況に対し、難民支援協会では、難民とともに生きる社会の実現を目指し、政策提言といった社会に対する働きかけを行っている。

「法的支援、就労支援、生活支援、コミュニティ支援といった全ての支援を通じて、日本の政策が良くなっていかないと彼らは難民認定されません。そして、認定に至らないといつでも送還される危険性と向き合うことになります。そういった意味でも、制度が良くなっていくための政策提言を行っています。
また、制度の改善には、まずはより多くの人に広く問題を知って頂く必要があると思っているので、そのための広報活動にも力を入れています。それらを通じて難民が受け入れられる社会を目指しています」

また、石川さんは難民支援協会の活動を、”難民に対する支援”と”社会に対する働きかけ”というふうに、はっきりと2つに分けられるものでは無いという。

「(難民が)就職することや、コミュニティへの参加といったことも、社会に対する働きかけという側面も強くて。例えば会社で雇われるということは、難民と一緒に働くということじゃないですか。
そうやって、具体的に難民の人を従業員として受け入れることによって会社自身も変わっていきますし。
コミュニティは保育園や小学校に難民の子が来るとか、病院に来るとか。そうやって日本社会の”授援力”を上げていく。
そうすると、社会に対する働きかけにも繋がってくるので、スパッとこっちが社会に対する働きかけで、こっちが難民への支援、というふうに分けられるものでもないかなと思いますね」

支援のやりがいと辛さ

そんな石川さんが難民支援に関わり続けるモチベーションは一体なんなのだろうか?

「これっていうことでは無いんですけど、やっぱり20年間やってきてすごく支援の輪が広がっていくんですよ」

日本で暮らす難民から教えて頂いた料理をまとめたレシピ本である『海を渡った故郷の味-Flavors Without Borders』。この本の出版もまた、支援の輪を広げる契機となったという。

「レシピを元にレトルト食品が売り出される、またレシピにある食事が30以上の大学の学食で提供される。あとは、南山大学の学生とローソンが考えた、私たちの本をベースにしたお弁当が東海地方で売り出され、24,000食を売り上げました」

こういった形で、難民支援とは関係ないと思われていた人たちが、色々な形で支援に関わっていく。それを「支援の輪が広がっていく。」と彼女は表現する。

「やっぱり20年間やってきて振り返ると、ものすごく輪が広がっていく、繋がってきたものがあるんじゃないかと思いますね」

また、難民を通じて、社会を違う角度から見ることができることもまた、やりがいであるという。

「彼らを通じて日本社会の不寛容さも見させられます。『電車で隣の人が席を立った』とか。その一方で、難民の人から、『近所のおばあちゃんにみかん貰ったの!』というようなほっこりしたお話を聞いたりすることで、日本社会の寛容さを感じることもあります。
彼らの鏡というか窓を通じて、日本社会を違った角度から捉えることができます。また、彼らの故郷や地域の問題が、自分にとって他人事で無くなるということも、私にとってありがたいことだと思います」

その一方で、辛さも語る。

「辛いこと多すぎてあれですけど……。”先の見えない苦しさ”っていうのはありますね」

”先が見えない”。彼女が支援での辛いことを語る際に、何度も用いたフレーズだった。

「やっぱり活動する以上、その人にとって何らかの良い変化に繋がってほしいと思うわけですよね。関わっていた人が半年前より今日、明日より明後日と良くなってほしいし、良くなる見込みや希望があって欲しいと思うわけなんですが…。やっぱり希望がない、展望が見えない、今後どうなるかわからないっていうことがあまりに多すぎて……」

支援の辛さを語っている彼女の表情には、哀しさが垣間見えた。
難民認定されず、帰れと言われる。しかし国には帰れない事情がある。再申請はできるけれど、一切の生きる権利が奪われていく。働けない。生活保護の対象ではない。国民健康保険もない。政府の支援もない。

そういった解決策が提供できない中で、”支えるというのもおこがましい”くらいに先の展望が無い中で寄り添っていく。その先の見えないしんどさは、ずっと変わっていないのだという。
さらに石川さんはこう続ける。

「それに追い打ちをかけるように、(難民が)収容される。収容されると医療にも繋がらない場合がある。そういう時に、日本社会の排他的な側面を見せつけられます。それによって一人一人の人生の展望が持てないものになってしまっているという苦しさがあります」

こういった苦しい中での支援を続ける上でのモチベーションを尋ねると、彼女は強い口調でこう答えた。

「こんな社会じゃ嫌……!これを変えずにしていいのか……!社会を少しでも良くしたい、悔しくて怒ってやっている部分はありますね」

最後に、彼女は難民支援の目標を語ってくれた。

「大きなところでいくと、難民が生まれない平和な社会。もう少し中期的な目標でいうと、難民の人が日本社会の中で公正に受けいれられる、生活ができる制度、社会、仕組みを作っていくということですかね。
今はあまりに認められない、だからこそセーフティネットがありません。難民の人が、きっちり認められる、そして生きていくことが保証される社会を実現することが必要だと思っています」
[了]



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【写真提供】認定NPO法人難民支援協会
【取材・執筆】古家雄太郎
都内の私立大学に通う2年生。身長195センチ 足のサイズ31センチ。つくろい東京ファンドスタッフ。

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