Cold Moon

空が暗くなる頃に誕生した私が、この世界で初めて見たお月様は満月だったそうです。
生まれた数時間後、空に輝いていた12月の満月。
それを「Cold Moon」と呼ぶことを知ったのは、かなり大人になってからでした。

自分が生まれた時期だからなのか、それともなにか他に理由があるのか、はっきりと分からないけれど昔から一番好きな季節は冬でした。

地形ゆえに九州とは思えないほど冬の寒さが厳しく、「東京にいた頃とさほど変わらないのでは・・・・・・」と思える頻度で氷点下の日々が続いたりします。

都会と違い、イルミネーションが燦然と輝いているわけでもありません。
夜の空はどこまでも漆黒で、その暗闇に星のささやかな光が輝くので、都会暮らしの日々より寒さが感じられることが多いです。

夏場にはホタルがたくさん飛び交います。
山に向かえば途中からはっきりと空気の冷たさが変わり、吸いきれないほど澄んだ緑の香りがします。

きれいな水はひんやりとして、小川の流れに足をひたすと驚くほど全身から熱が引き、すっと背筋が伸びます。

季節ごとの植物が景色を彩り、その美しさに心を奪われることが多いです。
しっかりと手を入れた美しい花壇や、よく整備されたきれいな公園は都会にもたくさんありました。

整列するようにきりりと花びらを開く子たちの姿に、ほんのつかの間の安らぎを求めることが多かった毎日を思い出します。
だけど、田舎にある手つかずの自然の姿とはどこか違い、いつも寂しい気持ちになっていたことも思い出します。

ビルが立ち並ぶ都会の空に、満月を何度見たのか、あまり記憶にありません。
故郷に戻ってからも、ゆっくりと空を眺める時間を持つことはありませんでした。

暑かった今年の夏、私はちっとも回復しない体調に悩まされました。
ちょっと安定したと思うと台風が来て、また喘息の発作が出る。
崩した体調を整えるには厳しい天候が続きました。

今はもう9月です。
日中はまだ暑さを感じることが多いですが、お盆を過ぎた頃から、朝晩は涼しく、夜は秋の虫が鳴いていることに気づきました。

日の出の頃に窓を開け、部屋の空気を入れ換えます。
空は薄暗く、空気はまだ澄んでいて、深呼吸することが尊く感じられる時間帯です。
早起きの鳥たちが鳴いているかと思えば、庭のどこかで、夜の虫がささやくようにまだ鳴いている音もしています。

外に出られる時間があまりなくても、散歩に行けなくても、窓辺から季節の移り変わる様を見つめることができます。
少しずつ寒い季節に向かっていく時の流れが、とても優しく慰めてくれるかのようです。

お布団の暖かさや、お風呂のぬくもり。
大好きな白菜と豚肉をゆでて、ポン酢で食べる瞬間の喜び。
お豆腐も入っていればなおのことうれしい。
そういうものも、きっと冬を好む理由に含まれていると思います。
暖かいこと。
それがいつもよりうれしく感じられること。
冬が大好きな理由でしょう。

私が住む町は風が強く、ペラペラの体つきである私は油断するとあっという間にあおられて飛ばされます。
それでも風に向かって歩くのが好きなので、間違いなく負けず嫌いな性格なのだと思います。

着ぶくれするのも大好きです。
分厚いコートをまとい、マフラーをぐるぐる巻きにして、「雪国の子みたい」と周りから大笑いされたけど、ニットキャップを何年もかぶっています。
さらに、大事なお友達が誕生日のお祝いにくれたイヤーマフラーをして、完全装備で外を歩きます。
大雪の日も平気です。

でも、目的地に着くと、それなりに体が冷えていたりします。
そんな時、小さなカイロを握って暖をとっていました。
ミニサイズのホッカイロなのに、握るとゆっくりと体全体が温かくなっていきます。
徐々に緊張が緩んで、ほっとしていました。
自分にもちゃんと血が通っているのだと思い出せる瞬間でした。

私はいくつも仕事を抱え、無理をして、心がくたびれているのに、それを見ないようにしてきました。
必要とされることは喜びでした。
仕事も好きでした。
でも、過剰な期待を超えていくことも、そうすることでしか自分に価値を見いだせなくなっていたことも、私を苦しめていたと気づくことができませんでした。

大丈夫、きっと進んでいける。
そういう思いで、いつも真冬の風に向かって歩いていました。
冷たい風の中を歩くことは、生きることに似ています。
厳しさがあるから、日常の些細な出来事に幸せを感じることができるのでしょう。

風の中を歩いてきたあとのホッカイロは、毎日の中で繰り返される何気ない事柄に喜びを見つけた時のような温度があります。
ちゃんと温かさを感じられる自分が残っていることも、私には救いです。
そのことを一番実感できる季節が冬です。
だから、私は冬がもっとも好きな季節なのだと思います。

12月の満月、「Cold Moon」という呼び名の発祥は、ネイティブアメリカンと言われているそうです。
その教えの中に、「不快なものは神様からの贈り物である」というものがあると書かれていました。
不快なもので五感が研ぎ澄まされ、生きるための力が自然と沸き起こってくるそうです。

特定の信仰を持つわけでもなく、おうちは仏教だし、昔から仏壇にお線香をあげる習慣がある程度です。

ネイティブアメリカンの教えを学んだことはないけれど、自然の中に住処を見つけ、自然とともに生きようとする人間には、不思議と似たような考え方が根を下ろすのかもしれないと思いました。

今の私は、ゆっくり生きることを学んでいるのかもしれません。
穏やかな時の流れを感じ、その中から新しい生き方を見つけることが必要なのかもしれません。
そうできるようになれば、これまでとは違うことに幸せを見いだすことができる気がします。
自分の価値をいちいち問わなくなるかもしれません。

元気になるには、もう少し時間がかかりそうです。
今年の12月の満月の頃には回復できていたらいいなと願います。