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右隅の席

路地を曲がると、おしなべてにぎやかだったバーのドア窓は真っ暗だった。
まだわずかな蔦が伸びるとなりの小料理屋の壁の真ん中で、私は格子戸を開けた。
チリンチリン
「いらっしゃい」
店内のガヤガヤしたテレビの雑音から湧いてくるひときわ品のある女将の声にホッとする。
左の眉尻には大きなほくろ、口元には艶っぽい小さなほくろが印象的な四十半ばの女将は品川駅の路地裏で小料理屋を営んでいた。
髪を後ろで結い、白い割烹着を着た女将はまだ誰も座っていない8席ほどのカウンター席の一番右隅の席におしぼりを置く。
私は脱いだグレーのスプリングコートとカバンを持ちながら店の中央から右隅に向かい、うしろの壁のフックにカバンとコートをかけ、いつものようにその右隅の席に腰かけた。
目の前で女将はニコニコしながら両手を後ろにして何かを背中に隠している。
「はい、先生。おつかれさまでした」
女将はブーケのような白と青と黄色の小さな花束を私に差し出した。
私は思わず口が開き、その場に立ち上がる。
「ありがとう」
かわいらしい花束から甘い香りが漂う。
私はきょう品川駅からほど近い小学校の校長を定年退職した。
女房が亡くなってからというもの、一週間に十日来ているようなお店だった。
女将が瓶ビールとグラスを持ってきた。
私は受け取ったグラスを傾けると、女将がビールを注いでくれた。一口飲んでみると、格別に美味い。
「長いようであっという間だったなあ」
「ごくろうさまです。あっという間の先生の人生の刹那に私とこのお店を置いてくださって、ありがとうございます」
女将がいつもの笑顔で柚子の香りのするイカの塩辛と、小松菜とひじきのごま和えを目の前に置いてくれた。
私はビールしか飲まない。ビールが一番進むのがこの2品であり、注文しなくともそれらからはじめるのがルーティンとなっていた。
「定年してもこのお店にはまた来るよ」
女将の口元がキリッとなった。下を向いてまな板の上で何かを切る包丁の音だけが響く。
私は女将のうしろの壁をのぞき込むと、先月あたりから日本酒や焼酎のボトルキープが徐々に少なくなっているのに気づいていた。

3本目のビールを飲み干す。
「イカの塩辛もうひとつ頂戴。柚子の香がたまらないよ。それと、ビールもう1本ね」
「あら、きょうはペースが速いですね。特別な日ですけど大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だ」
トントントントン
等間隔で電線に停まっているカラスのように、カウンターの7つの黒い椅子たちがじっとしていた。
ボトルキープの棚の横に置いてある小さなテレビからニュースが聞こえてきた。
「東京都は都民に外出自粛を呼びかける一方、都内23区の飲食店への営業時間短縮要請を継続すると発表しました」
私は以前、女将からこれ以上お店を続けていくのは難しいかもしれないと聞いていた。
女将は小さな鍋を私の前に置く。
「はい、水炊き鍋。これは私からの定年のお祝いです」
「おお、ありがとう。白菜としめじがおいしそう」
「はい、ポン酢で食べてくださいね」
女将は小皿とポン酢をカウンターに置いた。
きょうはいつもにも増して女将の口元のほくろが艶っぽく見えた。
女将の眉尻の大きなほくろに目を移すと、若かりし頃を思い出す。


私は大学を卒業すると東京郊外の八王子の小学校に教員として赴任した。その3年目にPTA委員会で学校の校門前にある文房具店『山田堂』での下校後の児童の無駄遣いが問題となり、『山田堂』ではもう買わないようにと決定した。山田堂には文具のほか駄菓子もたくさん置いてあった。その決定を児童会で議題にあげ、学校全体で無駄遣いをしないように注意を喚起した。
そのときの児童会の指導教員が私だった。
私はすぐ会長、副会長2人、書記2人、役員6人の11人の子どもたちから賛成を得ようと多数決を取り、10人が賛成してくれた。しかし、5年生の書記の女の子がひとり反対した。
その彼女の左の眉尻にはとても印象的な大きなほくろがあった。
私は「無駄遣いしないように学校一丸となって取り組もうとしているのに、どうして君は反対するんだ」と問い詰めると、彼女は「だって、山田堂がツブれちゃうから」と答えた。
私を含め児童会全体が笑いの渦に包まれたが、発言した当の本人はキョトンとしていた。
そこで私は「君は山田堂で何を買うんだい」と聞いたら「よっちゃんイカ!」とまっさきに答えた。よっちゃんイカという酸イカは私も好きだった。
私は「酸イカなら駅前の商店街まで歩いて行けばスーパーで買えるよ。山田堂だって簡単にツブれやしないから安心しなさい」と言った。
彼女はうつむいたまま何も言わなかった。
私は多数決で決定させて、それ以降、各学級に反映させて無駄遣いをさせないよう徹底させた。PTAの親御さんたちの子どもたちへの監視はさらにきびしくなった。
山田堂は3年後に閉店セールを行い、潰れた。
「山田堂がツブれちゃうから」と反対した彼女は卒業して中学生になっていたが、街で会っても彼女に合わせる顔がなかった。
なんで彼女の気持ちを少しでも汲んでやれなかったのか・・・。
せめて店舗を特定せずにただの『文房具店』としておけばよかった。
私は山田堂の閉店セールに伺い、当時の担任だったクラスの子どもたちに遠足で配るため売れ残っているよっちゃんイカを全部買うつもりだった。
お店に入ると、もう子どもたちでいっぱい。店の奥にいた店主のおばあちゃんに「よっちゃんイカを全部ください」と言ったら、「あなたは先生ですか。先生に売るお菓子はひとつもありません。売り切れた後にそのお菓子を買いに来た子どもの悲しい顔を見たくありませんので」と追い返された。
私は何もできなかった。
山田堂の建物が壊されるのを見届けて、翌年、私は八王子から品川へ引っ越した。


私は小学校の校長を定年退職するきょうまでこのことを忘れたことはなかった。
この小料理店の右隅のカウンターからあの時の児童と似た女将の横顔を眺めては、自責の念に駆られ、若い教員たちに過去の失敗談を話してやった。
トントントントン
包丁の音が心地よい。

それにしても似ているなあ。
まさか、あのときの・・・
あのときの児童が・・・
まさか・・・
私は思い切って聞いてみることにした。
「女将さん、ちょっと聞いてもいい?」
「はい、なんでしょう」
「女将さんは小学生だった頃、どこに住んでいたの?」
「何かと思ったら・・・。私は八王子に住んでました」
「えっ、八王子!?」
「はい、それがなにか?」
「そ、そうなの・・・」
「はい。先生は八王子をご存じ?」
「えっ、あのー、まあまあ」
「八王子は良いところですよね」
「うん・・・。あのー、もう一つ聞いていい?」
「はい、何なりと」
「あのー・・・あっ、やっぱりやめとくよ」
私は小学校名を聞くのが怖くなりうつむいた。
「あら、どうなさいました?」
「う、うん・・・。それならさあ。女将さんは小学生時代、食べ物は何が好きだった?」
「食べ物ですか。そうですねえ・・・母が作ってくれた酢豚が好きでした」
「す、すぶた!?」
「はい。すっぱいものが好きなんですよ。それから・・・」
「それから・・・」

「せんせ! せんせ!」
肩を誰かがゆすっている。
顔がなにか痛い。顔を起こすと、口からよだれが出ていた。それを手の甲で拭う。
目の前には屈託のない笑顔で女将がこちらを見ていた。
「先生、気持ちよく寝ていらしたので、そのままにしておいたのですが、営業時間短縮になって、そろそろ・・・」
「あっ、そうかそうか、ごめんごめん。寝てたのか」
私は目をこすり終えると、女将のほくろを眺めた。
夢だったのかあ。

会計をしてもらい女将から伝票を渡された。
私は女将のほくろを眺めながら、伝票を突き返した。
「一番高級な焼酎をボトルキープしたいんだけど」
「先生、ビールしか飲まないのではなかったんですか」
「定年して、焼酎も覚えようかと思って。あっ、ビールも飲むよ。だからあと瓶ビール4本もボトルキープしておいて!」
女将の2つのほくろの位置が少し下がった。
「あらっ、ビールなら毎日新しいの置いてありますのにー」
「うん、でもいいだろ。キープしたいんだ。高級焼酎とビール4本、会計に入れて」
女将は伝票を持ったまま固まってしまった。
「では・・・お言葉に甘えさせていただきますね。信頼できるお客様にぜひ飲んでいただきたいと思って新入荷した本格麦焼酎とビールをボトルキープさせていただきます。そうなりますと・・・全部で3万五千円になります。ありがとうございます」
私は財布からお札を取り出し、女将に渡した。
「じゃあね。次回がたのしみだ、また来るから」
「ありがとうございます。お足元お気をつけて!」
女将からレシートを渡される。格子戸を開け、店の外に出た。
いつも赤い顔をした人たちでにぎやかな街は、人がまばらだった。
握っていたレシートを見てみると、「本格焼酎『世間知らず』八王子酒造」と書かれていた。

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