被害妄想(ショートショート)
トントン
トントン
ノックの音がした。
「こんな夜にだれだろう」
ベッドの枕元に置いてある目覚まし時計を見ると、夜8時過ぎだった。
35歳で独身のぼくはこの「つばめハイツ」に引っ越して3か月ほど経つが、いまだかつてNHK訪問員のほかに訪れる者はいない。
玄関のドアノブに手をかけた。
「はい。どなた様ですか」
ドアを開けると、アラフォーらしき髪の長い色白の女性が立っていた。
「あのー」
どこか見覚えある女性だ。
真剣な眼差しを向けてくる。
「あのー、このアパートの上に住んでいる者ですが」
思い出した。ちょうど真上の住人だ。
「あっ、はい。こんばんは。どうかなさいましたか」
「あなた、わたしの下着盗んだでしょう!」
「はっ?」
唐突に女性の口調が一変すると、こちらは言葉にならない。女性の眉間にしわが寄り、こちらを睨んでいる。
「洗濯物ハンガーから下着、盗んだでしょ!」
「ちょっと待ってください。何のことかさっぱり・・・」
汚いものを見るように女性は顔を引き気味にしながら疑いの目を向けてきた。
「あなたが盗ったのはわかってんだからね」
口調は少しトーンダウンした。
なぜこんなことを言われなくちゃいけないのか、見当もつかなかった。
「ぼくはここに住んでから一度も2階へ上る階段に足をつけたことはありません」
何か抵抗しなくては、と必死だった。
女性は大きな目を細める。
「警察に通報するからね」
女性は最後の言葉を残して引き返していった。
ドスンドスンドスン
2階へ上っていく階段の音がした。
カチャ
ドアを開け、自分の部屋へ戻っていったようだった。
ぼくは茫然としていた。
なにせ身に覚えのないことだった。
なぜ上の住人から濡れ衣を着せられるのか、見当もつかなかった。
このアパートはベージュ色した2階建て全6戸の賃貸住宅で、1階はぼくだけ、2階は真上にあの独身の女性だけが住んでいた。アパートのこの端の部屋だけが玄関と反対側の窓に陽がよく当たっていた。
ぼくはこの冬、近くの自動車整備工場に勤めるようになり、このアパートに引っ越してきた。
女性はそのときにはすでに2階に住んでいた。
毎朝ぼくは、つなぎを着て野球帽をかぶりイヤホンをしながらこのアパートを出て勤務先へ向かい、夜には同じ格好で帰ってくるのが日課だった。
1週間ほど経った夜だった。
ドンドン
ドンドン
玄関を叩く音がした。
またあの女か? それとも警察か?
ドアを開ける。
2階の女性が立っていた。
「また、下着盗んだでしょ」
「えっ?」
「勘弁してよね」
「いや、こっちこそ勘弁してほしいですよ」
「あんただってわかってんだからね」
「どこに証拠があるんですか?」
「あるわよ。本当に警察行ってくる」
「どうぞご勝手に」
女性はまた2階へ戻っていった。
こっちこそ警察に訴えたい気分だ。
もしや被害妄想か。
このアパートの大家さんに事の顛末を話し、相談した。
塗装工事会社の事務をしていた彼女は8年前にここへ引っ越してきたらしい。
そして、以前にもこの1階の部屋の住人に何度か言いがかりをつけ、結局1階の住人を引っ越させてしまったようだ。
大家さんも彼女は被害妄想じゃないかと疑念を抱いていた。ひどくなると、何度も下の住人へ怒鳴り込んだり、嫌がらせみたいなこともしたらしい。
これからどんな嫌がらせがあるのだろう。
被害妄想だとしても困ったもんだ。一方的にぼくが犯人扱いにされてはタマッたもんじゃない。ぼくは警察がいつ来るか、すこしおびえて過ごしていた。
ある夜、勤務が終わり帰宅すると、玄関先が3つほどの白く小さな散布物で汚れていた。
白いペンキかな。
あっ、アイツの仕業かも。塗装工事の会社に勤務しているって、大家さん言ってたな。
ティッシュで拭きとったがまだすこしこびりついていた。
ぼくはアイツの嫌がらせがはじまったのではないかと感じた。
家に入り、これからどんな嫌がらせが起きるのか、ベッドの上で怖くなっていた。
玄関や窓に大量のペンキをかけられるのか。
ドアにペンキで「下着ドロボー」と書かれるのか。
まさか、自分も上に住んでいるので火をつけることはないだろうな。
きっと、下着を盗んだ証拠がないので、腹いせに自分も証拠をつかまれないように仕返しでもしているんだろうな。恐ろしいな。今の世の中、何されるかわからないからな。他人が何考えているのかなんてわからない。
ベッドの上で天井を見上げた。
もしや、2階から盗聴されているかもしれない。
ぼくはリモコンでテレビをつけ、いつもより音量を大きくした。
ベッドから下り、玄関と反対側の窓際へ足を運んだ。窓からアイツが覗いてやしないか辺りを伺い、部屋のカーテンを思い切りしめた。
こうなったら、玄関に監視カメラを設置しないといけないかな。
今度の日曜、大家さんに相談しに行って来よう。困ってるんだから監視カメラくらいつけてくれるでしょ。もしダメだったら、そのときは引っ越そう。
テレビをつけっぱなしにしているせいか、なかなか寝付けなかった。
朝、鳥の鳴き声で目を覚ました。
朝食をとり終え、テレビを消した。
つなぎを着て野球帽をかぶり、耳にイヤホンをさして玄関のドアを開けた。
外からドアに鍵をかける。
そうだ、監視カメラはどのあたりに設置しようか。
野球帽のひさしを上にずらして、玄関のドアの上部の壁面を眺めた。
ふと、その上の2階の廊下を支える鉄筋に、つばめが巣を作っていた。
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