もみじ_1

もみじ(ショート小説)

もうこののどかな田舎駅に戻ってくることもないだろう。
向こうに見える小さな駅舎の隣の公園ではもみじが赤く色づいていた。
吐く息が一瞬白く立ちのぼる。
カラコロカラコロー。
早朝の風に吹かれ、薄茶色の枯れ葉が数枚、足元まで転がってきた。
早くこの街を逃げたかった。

勝沼慎一はこの地の小さな介護付有料老人ホームに介護職員として勤務していた。
売れないお笑い芸人を40歳過ぎにあきらめ、一念発起して資格を取得して介護職員となった。運よく知り合いのツテにこの民間の介護付有料老人ホームを紹介され、働くことになった。ここは65歳以上で要介護1以上の方々が入居していた。
しかし、勤務してちょうど3か月目にあたるこの日、勝沼は自分が介護職員に向いていないと判断し、老人ホームを、この地を逃げる決心をした。
駅のホームで音のする方に顔を向けると、遠くでカーブを曲がる列車の鼻面が隣の公園の赤いもみじの枝葉からぬっとあらわれた。

勝沼はお笑いに自信があった。お笑いを捨てたくなかった。しかし、先輩芸人におまえは才能がないからほかの仕事を探せ、と言われ続けて40歳にして介護の資格を取る決意をした。
介護の世界でも自分のお笑いの才能が生かせると思った。
しかし、現実は甘くなかった。
老人ホームにはさまざまなレクリエーションがあった。勝沼は勤務するや否や、ホームの施設長の鶴の一声でレクリエーション企画長に就任した。ほかの介護職員たちからもとても期待されていたようだった。勝沼は自分のコントやものまねで笑いの渦に包まれたこのホームの入居者たちを想像した。
しかし、この地で挫折を味わうのに長くはかからなかった。
これまでも定期的に開催してきた落語や講談、ボランティアの演奏会やゲーム大会などの年間行事に比べると、2週間に1回催される勝沼のコントやものまねはご年配の入居者たちにはほとんどウケなかった。なかでも入居者のひとり、83歳で要介護1の稲垣一徹さんは落語やゲームでもまったく笑った顔を見せたことがなかった。ましてや勝沼の芸では笑わない。稲垣さんの顔は目が細く、口はへの字で、勝沼のコントにはムッとしているようにさえ見えた。

稲垣さんは数年前まで上場企業の取締役だった。この老人ホームを車いすで移動するときも名刺は肌身離さない。普段は無口の稲垣さんはこの名刺を配るときだけ口を開き、会社での活躍をぽつぽつと話す。勝沼も稲垣さんの名刺はかれこれ10枚以上もらっていたし、会社の活躍話は何度も聞かされた。しかしそれ以外の話では機嫌が悪くなるのか、無口になる。みなさんといっしょにやりましょう、と勝沼が誘うと、おれはみんなとは違う、と言って稲垣さんは拒絶する。先日、勝沼が稲垣さんの車いすの介助をしていたとき、行く行かないの押し問答になった。勝沼は徐々に稲垣さんが苦手になった。それと同時に勝沼はほかの介護職員ともうまくいかなくなってきた。勝沼の仕事ぶりがまだ不慣れなこともあったのだろうが、それ以上に、ほかの介護職員は元お笑い芸人としての勝沼に期待をかけすぎていたようだった。老人ホームの入居者の笑顔も減ってきた。ただ、施設長だけはそんな勝沼を応援してくれたが、勝沼はむしろそれが重荷に感じていた。
きのう、2週間に1度の勝沼のコントの会があった。しかし観覧していた十数名の入居者の笑い声はやはりまばらだった。ことのほか稲垣さんは口のへの字を崩さなかった。しかもコントが終わると、稲垣さんは勝沼に「おもしろくねえ」と、捨て台詞を残して介護職員とともに車いすで部屋をあとにした。勝沼は耐えられなかった。
――明日朝、この地を去ろう。おれには介護なんて向いてないんだ。
勝沼は心が折れた。お笑いの才能もズタズタにされた。

勝沼は着の身着のまま、傷心をかかえてこの地の駅のホームから列車に乗った。車内は朝だったため、向かい合う椅子は高校生で埋まっていた。しかし、立っている人はまばらだった。勝沼は優先席がひとつ空いているのに気づいた。普段は絶対に座らないその優先席に、どんと腰かけた。
「ふー」
ため息をひとつつく。目の前の優先席には2人の年配の方が座っていた。
左の手すり側に白髪頭で金縁のめがねが似合うご婦人。右には髪の薄くなった老紳士が口を真一文字に腕組みをして座っていた。
勝沼は2人の年配を眺めながら考えた。
――おれはこの2人を笑わせることができるだろうか。いや、おれにはお笑いの才能なんてなかったんだ。
勝沼はもうお笑いのことを考えるのはやめようと思った。
列車が次の駅に停車した。向かい側のドアが開く。ホームからベビーカーを押したショートヘアの女性が乗り込んできた。ロングスカート姿で20代後半の母親と思しきその女性はベビーカーを車内中央で固定させ、自身は年配の方々が座る優先席の脇に陣取った。勝沼は音楽でも聴こうと思い、胸ポケットからスマホを取り出す。
イヤホンを耳に入れようとした瞬間だった。
向かいの白髪のご婦人がベビーカーの中を覗いていた。金縁めがねの奥の目じりが垂れる。口元も緩んだ。
「かわいいわね、何歳?」
ご婦人は手すり越しに顔を見上げ、ベビーカーに微笑みかける母親らしき女性に訊いた。
「まだ、3か月なんです」
「あらま、そう」
ベビー服はカバーオールだろうか、ベビーカーからにょきっと、水色のつなぎに包まれたあんよが出ていた。
凛々しかったご婦人の顔が一気に崩れた。
勝沼は微笑ましい光景に心が和んだ。
「バアー」
男の声がした。右隣の老紳士だった。さっきまで微動だにせず腕組みしていた老紳士は、腕を解き身を乗り出してベビーカーを眺めていた。目は見開き、口は大きく開いていた。
勝沼は驚いた。
ベビーカーに目を向けると、鮎がぴちぴち跳ねるように水色のあんよが元気いっぱいに踊っていた。どうやら男の子のようだ。
次の瞬間、老紳士は顔がくしゃくしゃになった。
勝沼は稲垣さんを思い出した。
――おれは大事なものが見えてなかった。
勝沼はお笑いというものがすこし分かったような気がした。
列車が駅に停車し、向かい側のドアが開いた。
母親は2人のご年配に会釈をし、ベビーカーを引きながら電車を降りた。
終点まで行くはずだった勝沼はとっさにこの駅で降りた。
勝沼はすぐスマホからイヤホンを抜き、受話器のアイコンをタップした。
「あっ、おはようございます、勝沼です。きょうすこし遅刻して出勤いたします」

2週間後の午前、リビングルームには入居者たちが集まっていた。きょうは勝沼のレクリエーション担当日だった。しかしこの日の主役は勝沼ではなかった。
目の前にはベビーカーがあった。
それを入居者の方々に見せながらゆりかごのように押したり引いたりする母親と水色のベビー服に身を包んだ男のあかちゃんがいた。
主役はこのあかちゃんだった。
勝沼は入居者たちを眺めた。
入居者の方々はみな笑顔いっぱいだった。
そのなかに口をへの字にした稲垣さんもいた。稲垣さんの口元が徐々に緩んでくるように見えた。目じりも下がり、ついに稲垣さんが相好を崩した。
勝沼が稲垣さんの笑顔を見たのははじめてだったかもしれない。

勝沼はきょうのために列車で出会ったこのあかちゃんと母親にレクリエーションの主役をお願いしていた。
勝沼は入居者たちの笑顔を眺めると、あかちゃんに感謝の気持ちでいっぱいになった。
ポケットから真っ赤なもみじの葉っぱを一枚出し、勝沼はあかちゃんのグーの手にそれを触れさせた。グーの手は小指から一本ずつ開き、もみじを今度は人差し指からぎゅっと握り締めた。
「かわいいねえ」
稲垣さんがつぶやくと、胸ポケットから名刺を一枚取り出し、車いすを自ら前に進めてあかちゃんのもう一方の手にそれを近づけた。リビングルームは笑いに包まれた。

勝沼は入居者たちのうしろに立っていた施設長と笑顔を交わす。
あかちゃんを見ると、つなぎの2本のあんよがぴくんぴくんと跳ねていた。


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