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2022/1/14(金)第4回公園研

 先日の公園研では、自分が報告担当になり、中川理『風景学』を紹介した。

・対象書:中川理,2008,『風景学――風景と景観をめぐる歴史と現在』共立出版.

風景や景観をめぐる議論は,近年きわめて活発である。哲学や美学,人文地理学などでの議論だけでなく,社会政策としての景観行政がクローズアップされる中で,建築学,土木工学,都市計画学,認知心理学などでも盛んに風景や景観がテーマとして取り上げられるようになった。
本書は,これまでの,さまざまな分野からのアプローチの成果を,近代社会の成立・成熟の過程という時間軸により整理することで「風景学」の構築を目指している。

共立出版の書籍紹介より引用

 以下は雑な紹介。いろいろ間違いもあるかと思うので、その点はご容赦ください。

 ピクチャレスク、崇高概念、そしてグランド・ツアー等が関与しつつ、自然の眺めを「風景」として発見していく近代において「風景」は風景を成立させてきた風土から引き剥がされていく(眺めが引き剥がされていく)。 

 「風景」は近代の国民国家においてナショナル・アイデンティティの基盤にもなりつつ、「意識を共同化する規範」として求められていく。そのなかで、「風景」を守ることを目的とした自然保護運動も生じていく(ドイツの例。必ずしも、自然そのものを守ることを目的に運動が発生したわけではない)。また、風景の保護と自然の保護は、対立することもあり得る。自然保護を優先した結果として、風景が損なわれていくといった具合に。

 しかし、ここで問われなければならないのは、風景が実際は人間と自然の関係のなかで変化していく可能性が閉ざされてしまっていること。ある種の「規範」となった「風景」を維持するどころか、「風景」を観光開発において理想の姿に改変する動きもあらわれる。「風景」を生み出す動向のなかで、「風景の公共性」を著者は求めているようにも見受けられる。(例えば、10章の商業空間の「風景」は、結局「風土」や「土地」に基づく日常の生活空間の「風景」にはなりえない。ただし、商業空間の風景を「偽物」と否定するのはもったいない、とも考えている。この点は「人と眺めの一体化」に効いてくる。)

 自然の風景だけでなく、「歴史的環境」についても著者は取り上げている。特に都市の歴史が作り出す風景に照準を当てている。都市の風景は、常に消滅・変容・生成してくものとされる。例えば、近代主義的な都市空間の再編に対する批判として取り上げられているジェイコブス、ロッシ、ハイデンらは、(先述の生成と変容を踏まえるのなら)人々の生活に根差す歴史から風景の価値を立ち上げようとしている。

 ただ、都市の風景は、グリッド・パターンの都市計画が象徴するように、無機質な眺めとして生み出されてしまっている。「反風景」として存在するだけでなく、もはや個々の眺めから「意味」が消失していく。このなかで、アメリカの都市美運動、チャンディガールやブラジリアの都市計画のように、都市の風景に「意味」を回復させようとする動きも存在していた。しかし、著者は、都市デザインは「意味」を獲得できたとしても、「価値」を生み出せず、「風景」を作り出せないといささか手厳しい。建築家が前提とする「意味」と、社会に共有される「意味」がつながらず、「社会的共同性に基づく風景」にはなりえないと著者は考えているようである。

 ここで、共同性に基づく(さらに、そもそも主観的・審美的とされる)「風景」ではなく、「景観」が登場することになる。「景観」は、特に1980年代に日本で多く使われるようになり、(おそらく町並み保存の運動の流れとも相まって)「眺め」は都市計画の行政的課題となった。つまり、客観的・普遍的な価値判断のために、行政に求められるのが「景観」なのである。付随して、景観工学といった学問潮流もあらわれる。しかし、やはり「快適さ」を主に測定する「景観」は、主観的美を排除してしまっている。確かに「景観」は、「意味」が奪われた近代社会において、「眺め」に価値を見出すための方策なのかもしれないが、「景観」では評価されない価値もまた、残されている。

 著者がここで着目しているのは、「生活景」である。「生活景」は、いわば「景観」を「風景」に拡張するような概念である。特に、デザイン・サーベイの動向が取り上げられている。景観における「測定」という点は、デザイン・サーベイも共有しているように思うが、他方で必ずしも「快適さ」には拘泥していない。都市計画を凌駕するような人々の日常生活における「眺め」を、考慮に入れている。私見では、著者はこの生活景に、風景の限界や景観の限界を乗り越えるヒントを探ろうとしているように思えた(というか、自分がそう思った、というだけか)。しかしながら、この生活景にも課題がある。特に近代社会の生活景は、結局生活の眺めのなかに「共同化される価値」を想定するのが難しいのである。つまり、共同体の外部から、ある特定の生活景に対して価値を測定することはできない。この生活景の隘路に対して、著者がおこなう提案はなにか。(生活景にいる)自らが、自らを観察するにはどうすればいいか。ここで主客二元論の乗り越え、すなわち、人と環境の一体化、さらには、人と眺めの一体化が持ち出されるのである。

 人と環境の一体化については、アフォーダンス理論、パタン・ランゲージ等が取り上げられながら説明がなされている。しかし、パタン・ランゲージの例として出された真鶴は、結局、「美」の評価を誰が行なうのかという問いに応答することの困難を抱え込んでしまうことになる。また、人と環境の一体化においては、結局、人格と環境が切り離され、ゆえに人格と眺めも切り離されされているという(現代都市的な)状況を捉えることができない。そこで、著者は「人と眺めの一体化」を提起することになる。つまり著者は、現代の都市では当たり前となった、土地や風土などの環境から自由となった人間、そして人間の人格とも環境とも関わりなく自由に生成される眺めとの関係を考えようとしているのである。

 人間と眺めが直接的に生態的関係を築く例として、路上観察学会やベルクの「実景」が引き合いに出されている。特に後者について、いわば、認識する主体としての「わたし」さえも認識の対象となり、「他者」となり、「風景」となるのである。

 以上が雑なまとめになる。最後にかけて、シミュラークルやショートケーキハウス、没場所性のような話もでてきているが、まとめる余力がなかった。なので、最後の「人と環境の一体化」「人と眺めの一体化」も実は理解があまり及んでいない。

 研究会では、社会学では「風景」「景観」よりは、やはり「場所」「空間」を術語として使用するのではないか、といった議論、またこの本の最後にでてくる「日本人古来の人間と自然の一体化する意識」をめぐっての日本人論に関する議論、また、景観工学や都市工学の射程では届かない、社会学に基づく「風景」「景観」に関する人々の営みや実践の検討に関する議論などが交わされた。

 研究会で使用したレジュメは以下。ちゃんとしたものではないので、その点ご容赦ください。


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