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この国ではいつまで経っても自由、人権が理解されない


元々この国において理解されていなかった自由、人権と言う概念は、皇位継承問題以降、コロナ禍を経て、本当に価値を失ったと感じられるようになった。

今の日本を見て、

「この国は自由主義国家である」

と言う者はいないだろう。

同様に、

「この国は人権が尊重される国だ」

と言う者も、

「この国は法治国家である」

「この国は立憲君主国である」

と言える者もおるまい。

いるとしたら、そいつは何も分かっていないだけだ。

人々は、メディアと専門家に支配された大衆ばかりとなり、全く語る資格の無い者達の幼稚な、近視眼的、刹那的、情緒的言論が実質的に尊重されている。

コロナを蔓延させない為に人々は自由を捨てろ!何人もコロナを例外なく、最大限に恐れろ!他のリスクは如何なるものも些細なものだ!コロナに全集中しろ!もし自由を取り戻したいなら、私権制限しろ!人々を出歩かせるな!マスクアルコールソーシャルディスタンスを徹底させろ!反対する者は非国民だ!こいつ等に医療リソースは使わせるな!!

これが正義と言われる時代なのだ。

何処にも科学がない。自由な言論も哲学もない。人権意識もない。法と言う概念すら歪められている。

こんな奴等が今、実質的にこの国を動かしている。

政治家が悪いなんて周回遅れの議論はもうやめにしたい。

政治家は国民が選ぶのだから(まさに、オルテガの言うパンを求めてパン屋を破壊するのが彼等だ)。

官僚が悪いなんて周回遅れの議論もしたくない。官僚の質を低下させたのは他でもないメディアと国民なのだから。どんなに真面目に頑張ってもゴシップ記事で失脚させられるのが官僚、省庁だ。給料も決して高くはない。コロコロ入れ替わる学習能力の無い国会議員へのレクチャーが常態化した彼等は本当に可哀想だ。

そしてどちらも結局は、メディアと国民の感情に右往左往するだけの存在に過ぎないのだ。

優先順位が低ければ選挙の為に節操もなく折れることができるが、そうやると「信念がない」と言われ、

裁量でやれる、絶対にやらねばならぬことをやると、「独裁」と言われる。

そこに国民主権、国民による統制なんてものは成立し得る余地がない。

このような主権者国民の、そして実質第一権力者たるメディアの無責任体質が、主権者の意思を反映しない、ある種の政治の自由主義を齎している。

このような事情により、国民の無責任体制は政治的にも国民的にも責任が曖昧になり易くなる。

コロナ騒動はまさにその典型例と言えよう。

政府は本当は自由主義でやりたかった。しかしメディアと国民の圧力に屈して譲歩したら、何故か国民がそれを批判し、自民党は駄目だ、と言う話になる。

政府として自由主義でやりたいのは当然(もう忘れられているがGoToキャンペーンは適切な政策だった)で、私権制限を行う法的なハードルがあり(憲法、例えば13条)、そもそも企業が利益を減らすやり方は支持者的に有り得ない(自民は大企業、公明は中小企業や自営業が比較的多い)し、そんなことをしたら雇用が失われるし、補償するとしても財政的(麻生は財務大臣就任以降、緊縮派に転じた)に国債発行を控えたい、と言う事情がある。

これはそもそも妥当な考え方だろう。何も世の中コロナしかリスクが無い訳ではない。これまでの日常を送りながら如何にコロナに対処するか、と言う話でしかないからだ。

だが国民はそれを許さなかった。徹底してコロナを封じ込めろとメディアと共に騒ぎまくった。安倍もそれに驚き、誰にも相談せずに学校を全て休校にすると言う法的にもデタラメなこと(どこも国営学校ではない)を指示し、どこもそれに従った。

そして更には元々法的に問題ありありだった新型インフルエンザ特措法を、問題があると認識しておきながらもその対象にコロナも含めると言う暴挙としか言いようのない改正案を、国会の議論も経ずに成立させた。

これは政府与党の国会対策委員長(森山裕)と、第一野党立憲民主党の国会対策委員長(安住淳)が国会外ですり合わせ、国会では議決を行うだけと言うやり方だ。

それにより、昨年では要請(法的拘束力のないお願い)に従わないだけでパチンコ店や飲食店が次々にバッシングの被害に遭うこととなった。

全くそれらが感染者数減少に寄与しなかったのに

こんなデタラメを一年以上見せつけられた我々だが、その予兆は既に存在していた。

それは眞子殿下と小室氏の結婚問題だ。

(前置きが別の本題になってしまった)

冒頭の記事を書いた馬鹿は、山田美保子なる人物だ。

中々の世間知らずぶりに驚くが、要点だけ引用しつつ批判しよう。

そもそも、我々がイメージしている「皇族のご結婚相手」とは、著しく違うことは事実だろう。

この方(に限らず汎ゆる反眞子殿下全般)は、皇室の決断ましてや当人の決断より、自分(我々)のイメージが正しく、かつ優先されねばならないと信じて疑わないのだ。

また、

山田さんが「お幸せに」と言えなかったのも無理はない。ご結婚を通じて小室圭さんと母親の佳代さん(55)が皇室と“親戚”になる。

これも酷い話だが、皇室には、ご自身の人生の伴侶の選択すら、公的に選択せよと共用しながら、自分達は私的嫌悪感を正当化すると言う人間の底辺の傲慢さを公にしても全く羞恥心が働かないらしい。

眞子さまは「30歳までに結婚したい」という考えをお持ちとの報道もある。
「それが真実だったとして、現在の一般的な女性が持っている感覚とは異なるという気がして仕方ありません」(同・山田さん)

一般的な感覚の妥当性もさることながら、その感覚に該当しないならば他人の婚姻にケチをつけても構わないと思える傲慢さが酷い。こいつは我儘なクズの見本だろう。

こんな駄文を公表できるなんて頭がイカれているとしか思えない。編集、読者含めてクズしかいないのだろう。

是非アングラでやってくれ。

AVなんかより遥かに不健全だ。

「ご結婚に国民が違和感を覚えるのは、“層”によって違う背景があると思います。1つは皇室の“ファン”とでも呼ぶべき層です。皇室に対する敬愛の念が強く、慶事に対しても一定のイメージを共有しています。小室さんと佳代さんは、こうした人々が思い描く結婚相手としてはズレが生じているため、反対しているわけです」(同・山田さん)


これはある意味正しい認識だろう。

彼等は皇室ファンでしかない。言ってしまえばジャニヲタと同じだ。特に上皇陛下、上皇后陛下ファンが、延長で他の皇族を見ている。

ジャニヲタにも当然健全な者は多いだろうが、メンバーの結婚にケチをつけるような三流ファンはファンと称するのもおこがましい。私物化したがる似非ファン、現実とエンターテイメントの違いが分からぬ幼児だ。

それが皇室「ファン」の基本層だ。決して彼等は尊皇家ではない。

少なくとも、自分達は皇室より思慮分別のできる、意見し得る立場の人間だと言う人間は、全く尊皇心は無い。

自分が誇らしいと言える皇室像しか許さない、と言っているだけなのだから。


もう1つの層は、本来であれば皇室に関心を示さない人々で構成されているという。
「こうした層の代表例が、SNSに反対意見を投稿している方々ではないでしょうか。もともとネット上では、“不公平”に強い憤りを示す傾向があります。小室さんと佳代さんは、金銭トラブルなど様々な疑惑、問題点を解決していません。ところが、結婚話だけはどんどん先に進んでいく。これを“不公平”だと見なしているのだと思います」(同・山田さん)

不公平だなんておこがましい。

あれは元婚約者が自発的にくれたお金であり、返済を申し出たところ、不要であると言われた上に、その後同じマンション故に何度もすれ違っていても普通に会釈する間柄だったのに、結婚報道後、週刊誌から借金を返さないとそれまでの経緯と異なる発言を公表し、しかも学費で使った云々もデマで撤回するわ、代理人は週刊現代の記者で弁護士法にも触れるわ、そもそも圭さんではなく親の問題だわで、本人同士の結婚なのに、外野がデマに基づいて非難し、それに沿った謝罪と破談を要求する行為こそが不道徳、不公平、卑劣な行為だろうが。

結局2つの層とやらも、この馬鹿女にしても、全く正当性のない言いがかりだった訳だ。

国民がこんなレベルならどんな王室も、国家も、先はないだろう。

最後となるが、この2つの層、つまり趣味として、自分の理想を押し付けるのモンスターロイヤリスト、納税故に意見できると考えるモンスタータックスペイヤー、このような輩がやっていることは、自分が気に入るか気に食わないかだけで肯定、否定することだけである。

そこには当然人権なんて概念が存在する余地はないし、自由なんて概念が存在する余地もない。

あるのは、感情に支配された人間理性として不自由な、また自分のことしか考えない、非常に狭い了見だけと言うことだ。

自由や人権とはそんな低俗な話ではない。

もっと人間が真剣にああだこうだ議論し、言論により可視化しながら築き、守るべき尊い価値観だ。

その価値観と皇室は共存可能だが、この価値観と大衆は相容れない。

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