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相対的な状況確認ができない奴が社会を破壊する

相対化

相対とは

他との関係の上に存在あるいは成立していること。(デジタル大辞泉)

そして相対化とは、

一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。学問的な主義主張や、特定の事件などの報道のされ方などについて言われることが多い。(実用日本語表現辞典)

何故コロナ禍において相対的な見方を必要とするかと言うと、

我々に必要なことはcovid-19そのものの脅威の絶対的評価ではない。そもそもそれは不可能かつ無意味なことだ。本当に必要なことはウイルスが社会にどれ程の影響を与えるか、その対策と称し、抑圧策等を行っているが、我々国民全体が被る汎ゆる被害を全体的に最小にする為には、ウイルスそのものの評価に加え、その対策の為に人的、資金的リソースがどれ程必要か、またそもそも調達し得るかを検討し、更には社会的副作用(様々な制限による)をどこまで許容するかを考え、実践すること

だからだ。

あくまで我々が対処すべきは一つではないし、その一つにせよ、他を無視してできることではない。他との関係において考えねばならないのだ。

例えば普通の常識ある医者なら本来の疾病よりリスク、副作用の大きな治療なんてのは常識さえあればやらない。

これをグローバルダイニング長谷川社長の言葉を借りて表すなら、

指先が化膿して腕を切り落とすようなもの

だ。

我々が考えるべきこと

つまり、我々が考えねばならないこととは、様々な社会的関係性を踏まえた総合的対策でなければならないのだ。

具体的には

・コロナ感染拡大抑止策の実施

・人的、物的、資金的、医療リソースの整備

・移動や活動の制限の内容

・制限開始、解除の条件設定

・経済被害の抑止

・補償及び財政、国債発行

・それ等を行う為の法整備


と極めて多岐にわたる関係性を踏まえて手を打たねばならない。

しかしコロナ脳は誰一人それを理解していない。

「経済も大事」「コロナが落ち着いてから」なんて言ってる奴等は、

自分が「コロナをちゃんと怖がってます」と世間体を考えてアピールしてるのと同じ理屈で「経済も無視してないですよ」とアピールはするが、その実どちらについても何も考えていない。

この手の世間体馬鹿は発言意欲が高過ぎるし頭が悪過ぎるし本当に迷惑でしかない。消えてほしい。話が全く前に進まないから。

さてそろそろ、そんな馬鹿は、末代まで馬鹿にされるべきクソだと理解した上で、相対的な思考の実践に移ろう。

コロナ禍における相対化の実践

何と何を相対的に考えるべきか。

ウイルス、細菌との比較

まずはコロナと他のウイルス、細菌についてだ。

今に至るまでコロナ脳の頭の悪さとその悪化は留まるところを知らない。

当初より、季節性インフルとの比較が最も適切な理由は自明だろう。

飛沫感染するウイルスで、人が死に至る病だからだ。

毎年1千万人罹患し、1万人程が亡くなる季節性のウイルスだ。

酷い時には一週間で有症状の患者が2百万人現れたりした。

数が多過ぎて定点調査しかできないから、実際にはその死者は2万人とも4万人とも言われる。

今ではコロナ脳で有名な岩田健太郎ですら言っていた話だ。信憑性はあるだろう。

そこでその数字を単純に比較しよう。

いや、単純には無理か。コロナは死因がコロナと無関係でも死者にカウントするし、無症状陽性者ですら感染者としているのだから。

だからコロナは実際はもっと少ないと見よう。

また、インフルと違って年間ではなく、トータルになっていることも指摘できるが、敢えてトータルと、インフルの年間を比較しよう。

当たり前だが、インフルはこれが何年もあったのであり、コロナは全て糞も何も入れ込んで水増しした結果がこれだ。


コロナ

陽性者:461,942人

死者:8,957人

インフル

感染者:1千万人

死者:1万人

結局、インフルよりコロナは人を殺さない。

これが事実だろう。

しかもインフルは治療薬、ワクチンもあり、全国どこの病院でも診てくれる。もしワクチンや治療薬に意味があるとするなら、コロナは大幅に下がる筈だからインフルより更にショボいウイルスとなるし、効果がないなら騒ぐ意味がない。

また一方コロナは今ではどこもかしこもビビりにビビって受け入れ拒否して、徒に時間が経過して人災により亡くなる方も多い。特に高齢の認知症なんかになると死ぬまでたらい回しみたいなものだ。結局、医療崩壊と言うのは法的に対処できるリソースを極限まで少なくし、かつ患者に対処すべき人数を大幅に減らし、更には国もメディアも専門家も最悪のウイルスかのように言うから国民の差別感情も増幅し、医療従事者すら尻込みする。

その結果、ヤバいヤバいと騒いでいるだけ。これ、結局人間が組織その他を管理できなくしただけの人災でしかなくないか?

ああ、何か話がどんどん膨らむ。馬鹿を相手にするとこうなるから困る。

次に他に比較すべきウイルスはないかと考えれば、何故かコロナ脳は09年の新型インフルを取り上げ、当初の如き厳戒態勢を取れと騒ぐ。結局あの時はメディアの煽りも少なく、国もあっさりとワクチン前に収束と判断し、日常を取り戻した。

結局09年の新型インフルとの違いは人間が騒ぎ過ぎたことくらいだ。

それから馬鹿はスペイン風邪すら持ち出していたが、これは言うまでもないだろう。

そして彼等は何故か肺炎球菌(子供が無症状で高齢者に移して年間3万人が亡くなる)や、結核(治療薬等ありながら未だに年間2千人亡くなる)との比較は拒否する。

いや、新型コロナってのを社会問題としてどう捉えるべきか、って話なんだから、比較するには最適なはずなのに、何故かウイルスと細菌は違うから比較は不適切!と言い出す。

こちらは社会として死者をどのように受け入れるか、ゼロなんて明らかに無理なんだからある程度ラインを定めよと言う話なのに、何故ウイルスと細菌の区別を必要とするのか。

これこそコロナ恐怖を絶対化したが故の暴走でしかない。

次に、年間の死者数とコロナの死者数を比較してみよう。

この相対化もとても現実認識には有効だ。

まず、今の日本では年間130万人以上が亡くなっている。年間だ。そして昨年は老人が病院と言う娯楽から手を引いたが為に、逆に死者数が予定よりマイナスになった。

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勿論、これを人が死ななかったから良かったなんて捉えるのは馬鹿だ。

人間の致死率は100%だ。

昨年死ななかった分、今年や来年に増えるだろう。

そして同じ死者の話でもコロナ禍において忘れてはならないのが、自殺だ。

自殺との相対化

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毎年大きく減ってきた自殺が増えた。これは明白な事実だ。

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自殺は経済、雇用と直結している。

失業率が増えればその分自殺者も増える。

そしてコロナと違うのはその年齢だ。


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これを見れば明白だが、自殺は年齢層が若い。

そして、若者の自殺が増えた。若者の人口そのものが減っているにも拘らず、自殺の絶対数は増えたのだ。

コロナの平均死亡年齢は高い。しかし、統計がそもそもまともに公表されないあたり、この国の政治、メディア、専門家は本当に役立たずしかいないと痛感する。

こんな情報がすぐ出てこないことに憤らない政治家は辞めてくれ。

ネットで出てきたのは東京都の平均だが、それによると79.3歳と高い。やはり寿命でしかない。

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つまり、高齢者を死なせない為と「信じて」、若者を殺してきたと言うべきだろう。

国として終わっている。

経済との相対化

経済は、自殺の話の延長と捉えるべきだ。

先述の通り、雇用状況と自殺には相関がある。

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つまり、

「命と経済、どっちが大事だと思ってるんだ?!」

と言うのは極めてナンセンスな問いであり、

経済を軽視して命を軽視しているのが命派なのだ。馬鹿の極みだろう。

そしてこの手の悪平等主義の最大の欺瞞が高齢者の命を守れと言うものだ。

高齢者を守る為に他の如何なる代償もないのなら多少は許そう。そもそも人として死ぬ間際の人間が命に執着することを肯定する美学が俺には無いから"特筆すること"には不快感しかないが、コロナ禍(人災)はそうではない。

明確に経済を止め、若者の生活を奪うのだ。高齢者は年金も貯金もあるし、維持費は若者より不要だろう。子育て世代なんて特にそうだ。家のローンも人によっては多大に残っていて、その上所得が無くなり、更には子供は休校、夫は家の中なんてことになったら母親の苦痛は相当なものだろう。更には家庭内にいることでコロナ脳的には感染リスクが高まる状態まで恒常化する。

馬鹿の目先の薄っぺらい平等妄想はその実、若者の人生を奪う。

俺は断言するが、高齢者と若者の命を天秤にかけるなら、迷わず高齢者を捨てる。

俺が高齢者になっても変わらないだろう。

若者の人生を奪ってまで残り僅かな余命に執着するなんて醜い老害にはなりたくはない。

森喜朗が先日老害と言われていたが、彼は全く利益にならない仕事をあんな高齢になって、大病を患った身でありながらもやってた。本当の老害は若者の生活、人生を奪ってまで自分の命に執着するコロナ脳老害どもだ。

また経済の話に戻るが、そうやって頭数だけで考えたとしても、生産年齢の人間が減って、高齢者が増えると言うのは、結局この国の未来の資産を無くすことでしかない。

これを許したら亡国しかない。

だから、経済は、特に現役の経済は守らねばならないのだ。

言いたいことはまだまだ腐るほどあるが、長くなり過ぎたのでそろそろコロナ対策の意義に移ろう。

コロナ対策の意義

結局のところ、人々の移動制限による効果なんてものは極めて限定的だと言わざるを得ない。何故か。

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日本より遥かに移動制限の厳しいEUや北米は全くその効果が出てるとは思えないし、逆に日本ではGoToキャンペーンをやって人の移動を増やした"にも拘らず"、彼等より遥かに少ない犠牲で済んでいる。

この日本の状況を最悪だと言ってる奴等は、本物の、真正の、救いようのない馬鹿だから、純真無垢な気持ちで他国を「対策しても抑えられない馬鹿だ」と言ってることになるが、分からないだろうな。本物の馬鹿だから。

結局日本の感染者と死者の変動の主たる要因は何かと考えたら、それは「自然」と考えざるを得まい。

それから、水際作戦で効果があると信じられている台湾や、ニュージーランドのような国は、今は抑えているがそれは結局撤退しない敵軍との籠城戦でしかない。ウイルスとは超長期的に共存していくしかないのだ。

早期講話こそ安全保障の肝である。

相対的比較から得られる見解

まずコロナ対策として無法に行われる自粛強制が対策として我々に齎す利益は、直前に確認した通り、皆無である。

感染者が抑えられたと思い込むだけの「信仰」だけを我々は、いや、コロナ脳は手に入れたのだ。

その代償として失ったのが自殺者であり、人々の日常、生活、人生、健康、文化全般である。

相対的に見ると、何を得て、何を失ったのかが解り易くなるし、

逆にコロナ脳のように絶対的脅威と見做せば他のあらゆるものを犠牲にすると言う当たり前のことがより明確に解っただろう。

もう軽く1年はこの騒動に費やした。

我々はこれからも元々なくなる老いた命を守る為に、これから成長する若い命を犠牲にするべきだろうか?

馬鹿なメディアや政治家、専門家に大衆はそのようだが、

街にはそうではなく、「付き合ってられない」人々が増えてきた。

俺はその方々を論理的に、心情的に応援する。

コロナ脳を心から侮蔑しながら。

こいつ等はクズだ。

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