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選民主義について

選民主義と言う言葉を聞いていい印象を持つ者はあまり多くはあるまい。

日頃からこの言葉は、自意識過剰な人に対して、その思い上がりを揶揄する為に利用するのが基本なのだから。

実際、辞書なんか引いてみると(Weblioが参照してんのがwikiなのか)、

選民(せんみん)とは、特定の集団(民族の人民、宗教の信者)が、神や血統などの独自性に着目して選ばれた特別な存在となる(と信じられる)こと。またはそうして選ばれたと標榜している集団である。

とあり、普段の人々の認識の通りと言えるだろう。

俺は選民主義を好意的に捉えている

だが俺はずっとこの認識に違和感があった。俺にとっての選民主義とは、宗教心そのものであり、宗教心とは思い上がりとは真逆の思想だと捉えるからだ。

神に選ばれると言うことは、神を上位に設定しなければならない。神は自然とも言うべきだし、また天とも言うべきものだ。俺はずっとそのように認識している。神の人格なんてあるともないとも言えないし、あろうがなかろうが関係ない。そこにあることにすればいい。そうしたら既に心の中にいることになる。

その神は我々に何を齎すのか。俺は何も齎さないと考える。あくまで善悪正誤その他の混沌を混沌のまま授けてくれる存在だからだ。

そのような時間的、空間的、精神的な実存を、ただ神が提供してくれるこれらの要素を、より普遍妥当的に解釈しよう、そしてなるべく齟齬のないように実践しよう。道徳的善も、動物的本能も、どちらも人間の本質であり、それらと上手く付き合おう。その為にも神を信頼し、誠実に生きよう。

この敬虔な信仰こそ、誠実そのものであり、逆に敬虔な信仰のない誠実は存在しない。

誠実は信仰を齎す。

そして誠実とは、神の為にある。自分自身の利益の為ではない。結果として利益に与ることはあろうが、案外それは目的とはならない。

誠実そのものが目的なのだ。

その目的である神の教えに基づき、即ち道理に基づいて、生命を実践させる者こそが選民なのだ。

彼等は神の為に働く。神が働くことを求めない時は働かない。

決して彼等は大衆から選ばれたからではなく、また大衆より何かしら能力が秀でているからでもなく、また大衆に選ばれる為でも、また神に選ばれる為でもなく、ただ神の示す自然に恭順しているのだ。

そしてだからこそ政治は祀り事であり、自然への理解の深化(自然科学)と、人間の生物的本能と、道徳的側面の洞察(人文科学)を大切にしなければならなくなる。

かつてのまじないを非科学と侮ってはいけない。彼等はその時代時代の最先端を行っていたに過ぎないのだ。

現代の価値観で彼等を愚かと判断するのは、20年前のコミュニケーションにスマートフォンを利用していないからと蔑むようなものだ。馬鹿にする方とどちらが愚かかは言うまでもないだろう。

結局これまでの話から分かることは、いつの時代も、そしてどこの国も、本質的にやらねばならぬことは変わらないのだ(敢えて触れないが、経済はそれ等を成立させる基盤として重要だ)。

その本質を理解し、時代も加味していく人間こそ、選民、エリートだ。

このようなエリートではない者をエリートと偽り、その者共がエリートとは我々だと喧伝する過ちは全く珍しい話ではなく、どころか日常茶飯事だが、それを以てエリート主義はけしからんと言うのは、カルトを見て宗教を否定するのと変わらない。

その謬見が齎す本当に有害な選民思想

ところが人類は謬見から中々逃れられない。本来のエリート主義が政治を腐敗させたと勘違いし、エリート主義そのものを頭ごなしに否定するのだ。それが所謂左翼だ。

彼等はエリートを徹底して悪者であると蔑む。平成の世はまさにそれが正義であるとする世の中だったし、今もそれは引き継がれている。

だがそこには陥穽がある。本来のエリートとは違うエリートを指し、エリート主義は駄目だと否定し、属人的な問題を思想全体の誤謬と見做す、即ちエリートは腐敗するからエリート主義は駄目だと言う認識の裏返しで、

我々こそが、そのような腐敗とは無縁で物事の是非を適切に判断する資格と権利を持つと純粋に信じている大衆が頭角を現すのだ。

彼等は一切の歴史的知識も宗教的知識も、また専門的知識も持ち合わせていない。

しかし、「それが故に」主権者に相応しいと考えるのだ。

これこそが最も恐れるべき選民主義だと言うべきだ。

そして現在の混沌を生む原因こそ、その無知を正義とする、この"大衆の反逆"だ。

オルテガは本当に素晴らしい目の持ち主だった。

今世界中で起きているこの人災は、まさにこの大衆の純粋な正義が起こしている。





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