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他力本願とは

他力本願なんて聞けば、一般の理解は

自分では何の努力もせず、他人に、任せて、他人の力で何とかして貰おうと考えている不届き者

となるに相場は決まっている。

しかし、本来「他力本願」と言う言葉はそのような意味合いで生み出された言葉ではない。

これは浄土真宗の開祖親鸞の言葉だ。

これを考えるには本願について知る必要がある。

とは、釈尊(釈迦)をルーツとする宗教思想において、その道を志す人のことを指す。

特に狭義にはその中でも悟りを開いた者を指す。

悟りを開いた者を如来と呼ぶ。

例えば釈迦如来阿弥陀如来大日如来がそれで、

また悟りまでは開いていないが、修行の身にある者を菩薩と呼ぶ。

またこれは例えば観音菩薩弥勒菩薩地蔵菩薩等が挙げられる。

その仏の中でもこの他力本願と言う語においてキーとなるのが阿弥陀如来だ。

この阿弥陀如来は、悟りを開く時に次のように誓願した。

設我得仏 十方衆生
(設い我仏を得んに、十方の衆生)
至心信楽 欲生我国
(至心に信楽して我が国に生れんと欲うて)
乃至十念
(乃至十念せん)
若不生者 不取正覚
(もし生まれずは、正覚を取らじ)
唯除五逆 誹謗正法
(ただ五逆と正法を誹謗せんことを除かん)

要するに、

私が悟りを得て如来になれたら、皆を幸福にしたる。極楽に行けるようにしたる。無理なら自分は悟りを開けない、即ち仏徒として死ぬわ。必ず成し遂げる。ただ、五逆(※)の罪を犯したり、法を誹る奴等は除外するけどな。
※(1)母を殺すこと
(2)父を殺すこと
(3)悟りを開いた聖者(阿羅漢(あらかん))を殺すこと
(4)仏の身体を傷つけて出血させること
(5)仏教教団を破壊し分裂させること
  (ただし異説もあり)

と言ったところか。

この教えを以てして、親鸞が考えたことは次のようなものだ。

阿弥陀如来様と言う素晴らしいお方だったからこそこの誓願が成就した。阿弥陀如来様のような悟りはそもそも我々凡人が簡単に開けるようなもんじゃない。そうやって自力で救済されようと足掻くのは、阿弥陀如来様の教えを蔑ろにすることに他ならない。我々は、阿弥陀如来様の有り難い御厚意を素直に受け止めて、日々慎ましく幸せを噛み締めながら生きていこう。不安になることはない。阿弥陀如来様が最後は救ってくださる。

このような、人間の宗教的救済において、阿弥陀如来と言う絶対的な信仰があるからこそ、その御厚意を信じよう、と言うのが他力本願だ。

俺個人の考えを言うなら、それでも自力救済を求める。

だが所謂末法の世においては、このような教えは好まれたのだろう。

何故なら、「私が真面目に考えてもどうにもならないじゃん」と考えるからだ。

そしてやたらと自信満々に親鸞なる者が何もしなくても救われると説くし、その前には法然なる者が阿弥陀如来の有り難さを説いており、念仏を唱えていれば阿弥陀如来様は救ってくださると言う教えも出てきていた。念仏唱えたら救ってくれる、なんて話よりは救ってくれるのは確定してるから感謝だけする、って方が合理的だな、と考えるのは無理もない話だし、今の日本の状況も似たようなもんじゃないのか?

勿論、その似たようなもん、ってのが指すのは、法然、親鸞と専門家達の関係「ではなく」

どうしようもないと言う末法の世における恐怖、不安に対する庶民の思考停止と、それが齎す信仰についてだ。

念の為、明確に専門家と親鸞等は違うことを明言しておきたい。

親鸞等が語るのは宗教的死生観の話であり、死後の話だ。「そう言うもんだ」と信じて困ることもない。また五逆も排除した上で「悪人正機」と言う考え方も彼はしている。

悪人とは自分は善人ではない凡夫に過ぎず、謂わば生きている上で罪を犯すことから逃れられない悪人であると自覚する者のことであり、そのような己の悪を自覚している人間こそ、正しく救済される立場にあるとし、

逆に善人として自分に悪があると一切思わない「あてくしこそが善良な庶民ざます」な奴こそ、自己の正しい姿を認識できず、自力で救われると信じている悪人である、と考えているのであり、

決して今の専門家その他と比べるのも恥ずかしいくらい次元が違うのだ。

他力本願本来の意味と、所謂他力本願に至る凡夫の心理を簡潔に見ることで、

今の世の中のおかしさ、そして我々が取るべき態度について一つの視点を著してみた。


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