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ルールと運用

(画像はイメージですが、実際の会場とは関係あります)

健体康心の件でまた別の話を思い出したので、思い出話を軸にルールと人々の向き合い方を考えてみようと思う。

確かあれはエリアフ・インバルが指揮する(多分オケは都響)マーラーの2番「復活」のコンサートでの話だ。

あの頃は職場を異動し、中々仕事に慣れない状況でかつ、トラブルが発生した時の話だ。

残業で開演に間に合わず、1楽章が終わり、既に2楽章が始まっていた時だった。当然、3楽章から入れるものと思い扉の前で待っていた。係員もインカムで通話し、入れるつもりでいるようだ。勿論、楽章の切れ目でホール内に入る手筈。

さて、2楽章が終わった。しかし案内されない。そうこうしていると3楽章が始まり、結局3楽章も扉の手前で聴くこととなった。他にも同じタイミングで入れなかった人はいたが、全く気にしていなさそう。
それもそれでどうよ。
そして3楽章の終わりでも何やらもたついているのが見えた。案の定、案内に失敗した。
4楽章は4分程度と3楽章の半分以下。しかも5楽章とは切れ目なく演奏される為、こちらが主導しないと完全に中で聴けないことになる。

流石にそれは嫌だ。

他の客は相変わらず能天気。
俺は係員に4楽章が短く、かつ切れ目がないからこちらが入るタイミングを指示するからそのタイミングで入ると通告し、他の客にも声をかけてスタンバイした。

そしていざ切れ目のタイミングで入る旨を彼女に通告し、入っていった。座席は近いところの空席に座った。

ホールに入る際、係員は「お詳しいのですね」と焦りながら発してきた。

そりゃマーラーは、特に2番は大好きだから当然だ。5楽章なんてその中でも特に特に好きな曲だ。
マーラー(ユダヤ人)にとってのユダヤ教、キリスト教の話をするつもりは無いが、2番は、キリストの復活をテーマとした壮大な曲だ。美しく重厚でカッコいい。
フィナーレは何度でも聴ける、泣ける(歌詞なんてもんで泣かない。音楽だけで俺は泣ける)楽曲だ。

さて、ここからが本題だが、いくらルールが論理的に瑕疵がないように存在していたとて、結局それをその通り動かす為の仕組みの問題は、ルールの精度とは別の問題として厳然と存在する。

今回の話で言えば、指示者が存在し、オペレータが存在し、相互にリアルタイムに運用するとして、適切に誘導できなければルールは絵に描いた餅に過ぎないし、そのルールが守れなかったとて、何の補償もしてくれなければ守らなくたって何の罰則もない。

またこのルールの本来の目的は全聴衆に対してより確実によい音楽を聴かせる為の、具体的に言えば、

・演奏中の雑音や視界の妨げを避け
・時間に間に合わない人も入場でき

る為の取り決めと言えるが、実際に訓練されていなければそれは叶わないものとなる。

しかしそのルールの運用に関する過失は謝罪程度の贖いしかない。

つまり、ルール全体の解釈を無視して特定の部分だけを金科玉条の如く掲げ、特定の言動を論うことは、実は本来の目的を逸脱することになりかねないと言うことであり、それを防ぐには目的を達成することを目標、大前提として、それを達成する為の運用を相互に心がけねばならないと言うことだ。

これはコロナ事例でいくと、そもそも特措法の目的は、特措法第1条にあるように、

もって新型インフルエンザ等の発生時において国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにすることを目的とする。

のであり、法令を守る為と称する個々の、ミクロな動き(感染対策)は決してマクロな目的(即ち上記)を達成することとは一致しないと言うことであり、
俺のコンサートの話で行けば、施設側の手順(及びそれにただ従うと言うこと)は必ずしも音楽を適切に聴けることを約束しない、換言すればこのルール自体は遅れてきた聴衆に適切に音楽を聴くサービスを享受させることを約束する訳ではないと言うことだ。

国民の理解、協力無しに法律の目的は達成し得ないし、寧ろ無理解のまま、無責任に特定の法律にない目的の為に悪用したりするのは、決して法治主義ではない。寧ろ法律を最も侮蔑する行為であるとすら言えるだろう。

そして法律において融通を利かせるとしたら、その目的に適うか適わないか、そして当然憲法のルールを遵守しているかに主眼が置かれねばならないだろう。


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