人は学ぶべきを学ばず、学ぶべきでないものを学ぶ


勿論、俺は世間様、畜群、大衆様の思う通りの意図でこんな見出しをつけたわけではない。そんなものをあげても何の毒にも薬にもならないから。

よく馬鹿な大人は、自分が見出しの通りの傾向を持つと理解してかせずかは知らねども、よく子供や弱者の為と称して、「真似するからやめろ」と言う。

結局彼等は、子供はいじめの形式を必ず真似するし、大人はそこに有効に介入できないし、しないと言っているのだろう。今みたいに邪魔な、余計な介入しかできないから当然と言えば当然だろうが。

しかし、この一連の出来事から学ぶことは極めて多いはずだ。

まずはいじられる側の態度だ。

渡辺直美はそのルックスを「活かして」笑いをとっている。昨日の乙武もそうだが、現実を肯定し、それをコミュニケーションツールとして有効活用しているのだ。

話は逸れるが、たまにテレビでも「未練がましい禿」を見る。コンプレックスなのだろう。

しかし、その未練がましさから髪を伸ばしてその長い髪で禿を隠す様は余計に恥ずかしいとしか見えない。

ささっと坊主にすればそれはない。さっぱりして、自分を肯定できる近道になるだろう。

そうやって自分の考え方を変えるだけで、自分も周りも変わるものだ。

そもそも論、周りの人間は自分が意識するよりも自分に興味がない。

下手に隠そうとすると悪目立ちすると言うことを意識すべきだろう。

閑話休題。人によってはコンプレックスとなるものも、武器にできれば強い味方となるのだ。

こう言う心構えを真似させよう、真似ようとは思わないのか?

また、渡辺直美の発言を受けて、

コンプレックスとなり得るものを持ちながらそれを肯定している人々に対して、腫れ物を触るような態度でいるのは逆に失礼だと教えられないのか?


こう言う人の心を全く考慮しない理性主義に偏り過ぎた道徳主義こそ差別を助長する。

どんな人間も優れた点も劣った点も持つ。だから失敗し、傷つき、傷つけあい、時には手を取り合って生きていく他ないのだ。

ディスコミュニケーションから脱却しよう。


(唐突)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?