【パレット上の戦火】 第2話
「浄化」
2050年夏、ガタッと音がして、円周率を計算していたスーパーコンピューターが、停止した。天井にソーラーパネルの設置された、ガラス張りの数理解析研究所は、ぎらぎらとした太陽の日差しが差し込んでいて、うだるような暑さだった。
「止まった?」
数理解析研究所のコンピューターを触っていた研究員のアモン・シノドゥール小町は、所長の田中光章にそう告げると、田中は驚いて青ざめたような顔をした。
困惑の表情を浮かべたアモンによれば、円周率の計算が、途中でストップしてしまったというのである。無理数であるはずの円周率の計算が終わることは、本来ならばあり得ないことのはずだったのだが、その終わりが来てしまったのである。
「いくらなんでも、円周率でそれはないでしょう。」
田中はそう諭そうとしたものの、アモンは引き下がらない。
「ネイピア数でも、同じ現象が確認されています。」
「そんな馬鹿なことがあるわけないだろう。」
田中は強い口調でそう言ったが、
「本当なんです! 私も、黙っていようかと思ったんですが。」
そう返されて、田中も怯まずにはいられなかった。
この、最新鋭の技術を備えた数理解析研究所のコンピューター『箱根』が、たかだか数京桁オーダーの円周率の計算で止まる?
あり得ないことだ。田中は、戦々恐々とした。
恐る恐る、他のスーパーコンピューターのことも聞いてみた。
「廉価版の『新吉田』はどう反応している?」
「『新吉田』も反応しません。」
「『富岳』は?」
「連絡を取ってみましたが、私たちのと同じオーダーで止まってしまったみたいです。」
田中は、もう意識が途切れてしまいそうだった。
「プログラムにエラーはないのか?」
そう聞くのが精一杯だった。
「ないんです。最初コンピューターの故障を疑ったんですが、どうやらそうではないらしいんです。しかも、解析が完了したのではなく、明らかに解析が途中でストップしてしまった、ということが伺えます。」
解析が途中で終了することなど、あるはずがない。
だとすれば、他の可能性……。
「ハッキングの形跡は?」
「ネットワークにつなげていないので、その線はないと思います。」
アモンの返事も、ほとほと困った様子だった。
「システムエラーかな。何故止まったんだろう。」
「さっぱり……」
アモンは、唇をすぼめてそう言った。
田中は目に汗をかくような心地だった。サングラスの中の目の奥は渇き、汗が流れ、薄い血管が浮かんだ。普段アロハシャツの彼も、この日ばかりは寒気を感じた。
「とにかく、原因の究明に向けて全力で取り組もう。プロジェクトをストップさせるわけにはいかないからな。」
「はい!」
ハツラツとした声が、彼女から出た。
こうして、チームは動き出した。しかし、もうすでに時々刻々と事態は深刻化していた。
同じ頃、米国の国防総省のコンピューターに何者かが侵入していたのである。
職員のケルティ・イースタントゥーレッドは、長い赤髪の分け目から画面越しに見つけた、その侵入者のIPを解析し、オーストラリアからだということを突き止めた。
GPSは、南緯25度23分、東経131度5分、オーストラリア大陸のほぼ中心に表示が敷かれている。
「オーストラリアからの侵入、しかもこれはGPSによれば、エアーズロックの辺りになるな。どういうことだろう。」
と、ケルティはつぶやいた。
「明日から休暇だし、ちょっとエアーズロックの辺りまで出かけてみることにするか。」
ケルティは航空機によく乗っていて、マイレージが溜まっていたので、気軽に向かうことができた。そうしてケルティは、飛行機からバスを経由して目的地へ向かった。岩の近くまで行くと、何やら洞穴のようなものが見えていた。
「こんなことがあるなんて、珍しいな。下の方に、何やら穴が空いているっぽいぞ。ちょっと行ってみよう。」
穴に入ろうとしたところで、ケルティの意識は途切れた。翌日になっても戻ってこないことを不審に思い、もはや原型を留めないほどにぐちゃぐちゃになったケルティの遺骸を、バスガイドが発見するまでに、ケルティが何を見たのかを知るものはいない。
ケルティの死因は、不明のままだった。捜査班が、ケルティに付着したDNAを解析したものの、解析結果は謎だった。
「PCRは不連続で不均一、恐らく通常の生命体のものとは合致していません。」
鑑識の一人、ケネスが鑑識帽の下から茶髪を覗かせながら言った。
「防犯カメラの映像が、残っています。」
もう一人の鑑識、金髪のリアは、結わえた髪を解きながらそう言って、映像を捜査班に見せた。
捜査班一同は、その映像に釘付けとなった。
「これは…!」
ケネスは驚いて言った。
「まるで超獣生物が姿を現したみたいだ。」
鑑識長のカルナも、大きな目を見開いた。
その姿をパッと見て、何かとわかる者はその場にはいなかった。しかし、すぐにその画面は消されてしまった。
「あ、カメラに気がついた?」
リアは、叫んだ。
「消えた…」
とケネス。
「いったい何だったんだろう……」
カルナは、ため息を漏らした。
そこには、まだまだ人類が経験したことのない悪夢のような存在があった。
事件の調査のため、沢山の専門家が招かれた。しかし、専門家たちの意見は一致しなかった。「放射能事故の突然変異生命体?」という声もあったが、ある隠棲生物学《クリプトズーロジー》の教授が一言、
「ニュータイプのアーキアだな、これは。」
と現場に残された遺伝子の、分析結果のコードを見ながら言った。
「通常の細胞壁・細胞膜を持つ、ごく一般的に考えられる細胞を最小の構成単位とする生物とは異なっている。むしろ、縦横無尽に変形可能な特殊な細胞状の物質で構成されている。」
名前はトリス・カスガイといった。ケネスが呼んでいた隠棲生物学者だった。
「そんなもの、あるはずがない。」
と懐疑的な声が多く、「所詮は隠棲生物学者のたわごと」という見方が大半で、ほとんど誰も相手にしなかった。
しかし、そうこうするうちに、状況は日に日に悪くなる。身体中の穴から大量に出血する事例が相次いで起こり、多くの人々が道端の至るところで血だらけになって死んでいった。これについて、ウイルスの感染なども考慮して調査されたが、全貌は明らかにならなかった。
政府は専門家委員会を召集して、この原因不明の突然死に対応しようとしたが、議会の召集よりもずっと早いスピードで、この恐怖の現象は進み、議員は集まらず、毎日突然死が発生し、それを報道する声さえも、死に掻き消されていった。
結局、一連の死については、この頃の科学や常識の範囲内では、解明する事ができなかったのである。
次第に、トリス・カスガイが前に言っていた、「ニュータイプのアーキア」という線の可能性が高いのではないか、という声が上がるようになってきて、トリスにも発言のチャンスが回ってきた。
トリスは壇上に立ち、自説を展開した。
「あの生命体を、【異形のもの】の意味から取って、【ヴァーリアント】と命名しよう。ヴァーリアントこそが、この一連の大量死の直接的な原因に違いない。」
これを機に、トリスを筆頭としてヴァーリアント対策本部、通称VEX《ベックス》(VARRIANT EXTERMINATER)が世界各地にできた。
各国の政府は、各議会にヴァーリアント特措法を制定し、超異常事態宣言を発出した。議会でも研究室でもヴァーリアントの正体について数多くの議論が重ねられ、様々なエビデンスに基づく政策決定が行われた。
そうしてやっと、大量死の原因は、ヴァーリアントの幼生体によるものだと判明した。
これが第1の【浄化】だった。
しかし、その時にはすでに遅く、ヴァーリアントたちは地上に進出してきていた。コンピューターはヴァーリアントにハッキングされ、地上侵略のために悪用されていたのである。
その結果、コンピューターの統計上の数字が幾たびも、書き換えられてしまい、機能しなくなってしまった。かの円周率の計算がストップしたのも、このためだった。
しかも追い討ちをかけるように、ヴァーリアントは追加攻撃として、【巨大生物兵器】を地上に繰り出し、破壊し尽くした。海、陸、空とすべての角度からの激しい猛攻により、人類は逃げるすべもなく、都市は破壊され、見るも哀れな有様となった。
この一連の過程により、さらに多くの人口が失われた。
2度にわたる【浄化】によって、地球の人口の大半が消滅し、全人口の10%以下まで減じたのである。
文:夜田わけい
イラスト:蔦峰トモリ
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