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私が感じた田舎と都会の大きな違いとは?

大阪市内で生まれ、2009年に京都府の日本海側に位置する京丹後市に移住して15年。
大阪や東京の都会で暮らした45年と京丹後で暮らした15年を経て、改めて都会に行くと肌で感じるようになった田舎と都会の違いについて書こうと思う。

大阪の難波に近い町で生まれ、神戸で育ち、京都市内の大学に通い、東京の中心で働いていたので、自分で言うのもなんだけど人生の前半は都会っ子で、田舎暮らしがどういうものかさっぱりわかっていませんでした。

そして2009年、京丹後市の中でも人口500人程の小さな村に移住して約15年、今はすっかり田舎側からの視点になったから気づいたことを記録してみます。

この気づきは、都会で働いている時には頭をよぎりもしなかったことなので、一生都会で人生を終える人にとっては生涯無縁で終わることかもしれません。

それでも、都会→田舎→都会と遷移することで感じられたのはラッキーで貴重なことかもしれないので戯言ですがお付き合いを。

1つ目は、
「都会ってこんな直線やったんや!」

久しぶりに出かけた都会を見回すと、どこも直線だらけだったのです。道路もビルも、家もお店も、空まで直線で切り取られている感じに違和感を覚えました。

道路もビルも、街は直線!が当たり前だったはずなのに…、いつの間にか、曲がりくねった道や山や川の光景に慣れてしまった自分がいました。

そうして気づくと、ふと直線よりも曲線の視覚情報の方が、より脳に複雑な演算解析を求めているんじゃないか?と考えついたのです。(私の勝手な仮説でアカデミックな根拠は全くないです。)
つまり、毎日、直線的光景を眺めているより、曲線的光景を眺めている方がより脳に負荷を与え、その刺激が知らず知らずのうちに脳を活性化させている、という仮説です。

特に幼少期にこのような刺激を日常的に与えることは脳の活性化に役立っているはず!
残念ながら、幼少期、直線的刺激で育った私はもう手遅れなんですが…(汗

ともあれ、都会と田舎を行き来される方は、この視覚的刺激の違いを意識してみてください。

2つ目は、
「半径500m以内で何も食料が生産されていないって怖ない?」

これも都会にいる時は考えもしなかったことなのですが、田舎に来て当たり前のように田んぼや畑に囲まれ、地元の食材を当たり前のように消費していると、ふと都会に出て、周りに田んぼも畑もないと「いま突然、大災害が起きたらどう生き延びられるだろう?」という本能的な不安にかられたのです。

もちろん、コンビニやスーパーとか、普段は都会の方が断然便利でなんでもあるのですが、それって運ばれてるだけで、そこでは生産されてないんですよね…。

東京にいるときしばらく失業中の身だった私は、少しでも食費を節約するために近くだった多摩川の土手で食べられそうな草を毎日探していたことがありました。
それがいざ探すとなかなかない!
ツクシ1本見つかりません(汗

それがこちらでは、あれほど探してなかったツクシはうじゃうじゃ生えてるし、村中歩けば柿だらけ。おじいさんは田んぼで米を育て、おばあさんは畑で野菜を作っています。

都会で働いているときには見ることもなかった高齢者という生産のプロが田舎では普通にいるのです。なんという安心感でしょう!

昨今、米不足が世間を賑わしており、これは都会に限らず、ここ丹後でも同様に足りていません。

それでも今流通しているお米って、去年の秋に収穫したものを1年かけて消費している感じなので、8月になってないないと騒いでも今更です。もっというと春の田植え時点でどれだけ田んぼ作るか決めてるので、その年どれだけお米穫れるかってもう去年の春の時点まで遡らないと増やせません。

いま騒がれている米不足は、あと1週間もすれば今年の新米が出てくるので、確実に足りてくるのですが、ただ構造的には将来、田んぼやる人も減って今以上に米不足が深刻化するのではと思っています。

といって、この問題も今のうちに将来に備えて対応しておくべきことで、足りなくなった時点で慌ててもきっと手遅れなんだろうなあと思うわけです。

自分のまわりでなにも食料が生産されていない、というのは、今目の前にある危機なんじゃないかなと思います。

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