完全完璧学級委員長

「そうですね、学級委員長であることには誇りを感じています。それは確かです。が、委員長という肩書きそのものが好きなのか、と問われると、そうではなく。委員長という役職に付随する実体のある責任感。それを背負っている、あるいは背負わされているという感覚が好きなんでしょうね、私は……」

責任とは個人が社会と繋がるための最も単純かつ重要な契機だ。注意欠陥多動性障害、つまりADHDですね、と精神科医に告げられたあの日から、サクラバクシンオーの人生の指針は、社会に自分をアダプトすること、ただその一点のみに注がれることとなった。

サクラバクシンオーはバカでもお人好しでも底抜けのポジティブでもない。仮にそう見えているとすれば、それは彼女の自己演出力の賜物だ。

自分のような性質のウマ娘が社会に溶け込んでいくためには、ある種戯画的なキャラクターを演じることが必要不可欠である、という理性に基づいた危惧ゆえに、サクラバクシンオーはバカあるいはお人好しあるいは底抜けのポジティブを演じている。

たとえば、彼女のクラスではテスト期間になると「朝の英単語10問テスト」というものが実施される。

サクラバクシンオーは問題用紙を配りながら「今日こそクラス平均8点を目指しましょう!」といったことを口走る。それでいて彼女は6点か7点を取る。6点か7点というのがミソだ。教員や成績優秀層には「可愛げのあるバカ」と思われ、一方で落ちこぼれ層には「私たちの仲間」と思われる絶妙な点数。

そして最後に「次こそは必ずや!」とでも意気込んでみせればクラス全体が穏やかなユーモアに包まれる。

こうした芸当は、むろん彼女に満点を取れる程度の学力があることの証左に他ならない。暗記科目は得意なんですよ、と彼女は自負する。なんたって、ADHDですから!

逆に、コンサータを服用した程度ではどうにもならない理数系科目については、彼女は最初から白旗を上げることにしていた。「理数に弱い委員長」。奇しくもそれは周囲に愛される属性としては申し分ないものだった。

とはいえ彼女は徹底的に演技的な生き方をしている自分のことを、罷り間違っても「世渡りが上手い」などと感じたことはない。

自分をほとんど偽ることなく、それでいて社会システムの中で過不足なく活躍している者が世の中にはたくさんいることを彼女は知っていた。そういう生き方ができないから、自分は仕方なく演技的に生きている。それだけのことだ。

自分と社会の間に横たわる懸隔をことさらに強調し、泣く泣く社会に迎合している自分自身を自虐の文法で自賛しているような手合いがサクラバクシンオーは心の底から嫌いだった。

幾億もの人々の関わりの中で長い長い時間をかけて少しずつ形成された社会に向かって自分のちっぽけな自意識を振り回すことの無意味さ、愚かさ、傲慢さを彼女はよく知っていた。

私はそういう手合いとは違うのです、と心の中で念じながら、彼女は毎朝1錠コンサータを飲む。



サクラバクシンオーのクラスに転入生がやってきた。小柄で、恰幅がよく、暗室に取り残されてすっかり萎れてしまったジャガイモのような顔立ちをしていた。

彼女には対人コミュニケーションにおいて大きな難があった。

たとえば転校初日、彼女は弁当を持参するのを忘れた。オグリキャップが「少し食べるか?」と言って自分の弁当を差し出すと、「他人の作った弁当なんか食べたくない」と固辞した。タマモクロスが「1階に学食もあるで」と教えても「お金が勿体無い」と言って聞く耳を持たなかった。模擬レースでダイイチルビーに敗北した際には「金持ちは豊かな教育を受けられて羨ましい」と嫌味を述べ、クラス行事に精を出すダイタクヘリオスのことを「いかにも低偏差値」と揶揄した。

それでも彼女が大々的にクラスメイトたちから嫌われていなかったのは、上記の彼女の発言のすべてがウマッター上の投稿であったからだ。現実の彼女はといえば、誰かに何か言われても、短く返事をするだけか、何も答えないかのどちらかだった。

ゆえにたまたま彼女のウマッターアカウントに辿り着いてしまったサクラバクシンオーはただただ不運だったとしか言いようがない。サクラバクシンオーは彼女のアカウントのことについて誰にも口外しなかった。

とはいえ彼女は徐々にクラスメイトたちから避けられつつあった。彼女の悪意を封じ込める容器として、インターネットはあまりにも底が浅かった。

誰かが彼女のことを「S」と呼びはじめ、それは瞬く間にクラス中に共有された。ちょうどウマッターで「サワムロ何某」とかいう陰湿な男子生徒と、それを世話するメサコンの女子生徒を主題とした漫画が流行っており、そこから派生して彼女は「S」とあだ名された。

Sに対するクラスメイトの嫌悪感はいよいよ不可逆的なまでに膨張しつつあった。

決定的だったのは数学のテストでのある一件だった。シャープペンの走る音だけが響く教室の中、一人のウマ娘が手を挙げた。

「あの、なんか、覗かれてるんですけど」

彼女の視線の先にはわなわなと震えるSの姿があった。教師が試験を中断し、彼女のもとに歩み寄っていった。

「やったのか?」

教師がSに問いかけた。Sは「知らない」と答えた。カンニングを受けたと主張するウマ娘が語気を荒げた。

「見てたじゃん!だってほら先生、こことか…」

彼女は自分の解法とSの解法が全く同じであることを主張しはじめた。するとSは自分の解答用紙をビリビリに破き、それを口の中に突っ込んだ。誰もが彼女の奇行を唖然としながら眺めていた。

当然ながら紙は食べ物ではない。紙片を4、5枚口に放り込んだところでSの動きはピタリと止まり、飲み込んだ紙片もろとも胃の内容物を床にぶちまけた。

悲鳴としか形容しようのない悲鳴が教室のそこかしこから巻き起こった。教師は咄嗟に「誰か雑巾!」と叫んだがしばらく誰も動かなかった。けっきょく雑巾を持ってきたのはサクラバクシンオーだった。

サクラバクシンオーは近いうちに自分に降りかかるであろう災厄をこの時点で既に予感していた。そしてそれは現実となった。



「Sのことなんだが…」サクラバクシンオーを職員室に呼び出した担任がそう切り出した。「転入生だと紹介したのは少々語弊があってな」

担任はばつが悪そうに指を揉みながら続けた。

「彼女は別の高校でやや孤立気味だったというか、有り体にいえばいじめを受けていた」

担任の話は要するにこうだった。近隣の高校でいじめを受けていたSの両親は、トレセン学園ほどの名門であればそういった間違いも起きにくいだろうと考えた。そこで理事長の秋川やよいにかけあってみたところ、快諾。厳しい筆記試験も実技試験も完全免除という特例にてSはトレセン学園に転入した。

いかにも秋川理事長のやりそうなことだとサクラバクシンオーは思った。しかし口には出さなかった。それから担任は続けた。

「Sがクラスに馴染めるよう、学級委員長の君が率先して行動を起こしてほしい」

Sの面倒を見なければいけない苦痛と、自分は学級委員長として担任から信用されているのだという自己肯定感に挟まれながら、サクラバクシンオーは「はい!」と元気よく返事した。

職員室を出ると、山ほど書類を抱えたシンボリルドルフと出くわした。シンボリルドルフはサクラバクシンオーが「これは生徒会長!」と浮かべた笑顔に何か淀んだものを感じ取った。

「最近はどうだ?万事快調かい?」とシンボリルドルフが尋ねた。

「ええ、もちろん!学級委員長として完全完璧な日々を送らせていただいていますッ!」

「そうか」

シンボリルドルフは「じゃあ失礼するよ」と言ってその場を去っていった。サクラバクシンオーはシンボリルドルフが一瞬何かを言いかけてやめたことに気がついていた。



クラスで浮いている生徒のケア。いかにも学級委員長的な責務をこなすサクラバクシンオーに対して、クラスメイトたちははじめこそ彼女に対し憐憫と同情を寄せた。しかしそれは一過性の感情に過ぎないのではないかとサクラバクシンオーは危惧していた。

汚穢は伝染する。ゆえにそれは遠ざけられねばならない。穢多・非人にせよハンセン病にせよ、近代日本の差別史は少なくともそう語っている。Sと関わること、それ自体が禍事。

サクラバクシンオーの憂慮をよそに、Sはクラスから浮き続けていた。Sの座席は最後列の廊下側に位置していたが、休み時間や放課後になると彼女の席の周りにだけ不自然な空白が生じた。そこにだけ毒霧でも漂っているかのようだった。

体育教師が「二人組!」と言って短く笛を鳴らす瞬間がサクラバクシンオーにとって最も苦痛だった。Sと組まされることそれ自体も苦痛だが、それ以上に、周囲を見渡しながら注意深く二人組を形成していくクラスメイトたちが、明らかに意図的に自分とだけは目を合わせようとしないことが嫌だった。

「バクシンオーさんさ、好きだよね、私のこと」

Sが唐突にそう言った。サクラバクシンオーは一瞬彼女が何を言っているのか理解できなかった。それからようやく、体育の授業で自分がいつもSと組んでいることから、自分があたかもSを主体的に好いているかのような認識がSの中で形成されているという仮説に辿り着いた。

Sに目をやると、頬に汗が滲んでいるのが見えた。汗は砂埃を孕みながらぬらぬらと首筋を伝い、黄ばんだの襟の生地に吸収されていった。

ふざけないでくださいよ、とは言わなかった。だって私、学級委員長ですから。



ある日、総合の時間に人権擁護委員連合会の理事だという初老の男がやってきた。男はごほん、と何度も咳をしながら人権に対する持論を展開した。

男が言っていることは概ね筋が通っていたし、彼が人生の少なくない時間を人権問題の解決に費やしていることもなんとなく理解できた。しかし彼の言葉のどれもこれもがサクラバクシンオーにとっては陳腐なものに思えた。

彼の言葉は生徒たちの間で無意識に共有されているある種の合意のようなものを避けるようにして注意深く選び抜かれている感じがあった。その過程において彼が本当に言いたかったであろうニュアンスは剥落し、ほとんどありきたりな標語の羅列に陥っていた。

男はスピーチを終えると、最後に大きな咳をして壇上から降りていった。コピー&ペーストしたみたいな拍手が彼を包み込んだ。

数日後の体育の授業の後、クラスはまたもやSの話題で盛り上がっていた。先のスピーチの後に各クラスで実施された「いじめ調査アンケート」で、Sが「クラスメイトからいじめを受けている」と回答していたのだという。

いったいどこからそんな情報が漏れるんでしょうか?しかしそれよりも、サクラバクシンオーはその情報が直接自分のところに入ってこなかったことに危機感を覚えた。

「ご飯、今日はどうする?」

遅れて校庭から戻ってきたSがサクラバクシンオーの肩を叩いた。クラス中の視線がSとサクラバクシンオーに注がれた。

「え、あ、そうですね」とサクラバクシンオーは目を泳がせた。「ご一緒したい気持ちは山々なのですが、あいにく今日はプリントの整理等々がありまして…」

そう言った瞬間、Sの双眸に涙が滲んだ。「なんで…」とSがサクラバクシンオーの裾を強く握った。彼女の拳の中でぶちぶち、と裾ボタンが千切れる音がした。

本当に救うべき人間は救いたくなるような性質をしていない、というTwitterかどこかで見かけたテーゼがサクラバクシンオーの内部を駆け巡った。そんなのは浅はかなシニシズムですよ、と昔であれば一蹴していたであろうそのテーゼを、今や彼女は否定しきれないでいた。

いくら謙虚に譲歩してみても、Sにおよそ褒めらるるべき点は何一つ見当たらない。それどころか周囲の温情を当然のごとく我が物にし、居丈高に振る舞う。なぜ私がそんな奴のために?

「あの、痛いです」

サクラバクシンオーはSとは目を合わせずにそう言った。Sは顔を真っ赤にさせながら教室を飛び出していった。足音が完全に止むと、長い長い沈黙が訪れた。サクラバクシンオーに声をかける者は誰一人いなかった。

社会との接点を持つために抱え込んだはずの学級委員長という責務が、むしろ社会との接点を破壊している矛盾にサクラバクシンオーは身悶えした。

何かが決定的に間違っている、と彼女は思った。



コンサータを服用すると身体がカーッと熱くなる。細胞が沸騰する、という表現が医学的に正しいのかはわからないが、自分の力では決して到達できない地平へと無理やり引き上げられている感じ。こういうのをドーピングというのだと思う。

一般的に、治療という行為は、ある「異常」状態を「正常」に戻すための必要手順として理解されている。たとえば足を挫いてくるぶしにコブができる。そこに軟膏を塗布する。それによってコブが消える。つまり何らかの原因で身体に生じた剰余がゼロに戻る過程。

しかし精神疾患の場合はどうだろうか?とサクラバクシンオーは訝しむ。私が注意欠陥的で多動的なのは、私がADHDという病気に罹患しているからなのだろうか?それは違うと思う。

私が左右あべこべの柄の靴下を履いてしまうのも、集中力が持続しないゆえに短距離レースでしか目ぼしい結果を残せていないのも、もともとの私の固有の性質だ。

しかしそれを誰かが病気、つまり「異常」状態と規定している。だから私はこんなクソみたいな薬を毎日飲む羽目に陥っている。

誰か、って誰でしょう?



生徒会室に用があったサクラバクシンオーは道中でシンボリルドルフに出会い、二人で向かうことにした。理科研究室の前を通るとアグネスタキオンと思われるウマ娘の哄笑が漏れ聞こえてきた。

「あはは、君たち記者ってのは本当に教養がないんだねえ。朝日だっけ?毎日?くだらない与太話が書きたいだけなら文芸部でも訪ねに行ったらいいじゃないか」

それを聞いてシンボリルドルフは深い溜息をついた。

「教養、か…」

サクラバクシンオーは「会長は教養とは何であると心得ますか?」と尋ねてみた。

「そうだな」とシンボリルドルフは少し間を置いてから言った。「訂正できること、だろうか」

「訂正?」

「たとえば自分が本当に心の底から信じているものがあったとするだろう?しかしあるとき、そこに重大な欠陥や間違いがあったことに気が付く。そのとき、それを疑い、批判できる勇気が教養なのではないかと私は考えているよ」

サクラバクシンオーは心の中で唱えてみた。疑い、批判できる勇気。

「完璧な文章といったものは存在しない、完全な絶望が存在しないようにね」とシンボリルドルフが言った。

「えぇ〜っと、それは確か、村上春樹…でしたっけ?」

シンボリルドルフが静かに頷いた。

「完璧なものなど存在しない。何事においても」

ちょうど窓から差し込んだ夕日がシンボリルドルフに神話的な輪郭を与えた。サクラバクシンオーはそれを啓示として受け取りかけて、踏み留まった。完璧なものなど存在しないのだ。

「村上春樹は大嫌いな作家の一人だ」とシンボリルドルフが言った。「かつてはそうだった」

気がつけば二人は生徒会室の前に辿り着いていた。シンボリルドルフはサクラバクシンオーが抱えていた書類の束を引き取った。あとはこっちでやっておくよ、と言って彼女は生徒会室の中に入っていった。

廊下に取り残されたサクラバクシンオーは、自分が無数の音に囲繞されていることに気がついた。笑い声、掛け声、歌声、足音、ピアノ、ギター、ホイッスル、その他の特定できない音。この調和とは程遠い音の集合の中に、私は今立っているのだ。時刻は午後5時半だった。

サクラバクシンオーは制服のリボンを整え、ローファーを履き直した。靴下の左右は今日もあべこべだった。それからゆっくりと立ち上がり、敢然とは形容できないまでもしっかりとした足取りで歩きはじめた。



昼休み。木陰でサンドイッチを頬張りながらSが言った。

「シンボリルドルフって本当に嫌な奴だよね。エリート特有の傲慢っていうかさ。態度が気に食わない」

いつものことだった。Sには世の中に対して気に食わないことが山ほどある。サクラバクシンオーは彼女にとってちょうどいい悪感情の捌け口だった。

「エアグルーヴも有能そうなのは見た目だけで志望校上智らしいよ?私立文系って(笑)」

「エアグルーヴさんが上智志望なのはフェミニズムを専攻したいという明確な動機があるからだと思います」

ふだんは物言わぬ捌け口であるはずのサクラバクシンオーが反論を述べたことに対し、Sは明らかに動揺していた。

「フェミニズム、ってねえ。女が偉くて男はクソ、みたいなしょうもない学問でしょ?お気持ち表明したいだけならウマッターで十分なんだよね」

「全然違うと思いますよ」

「あのさ、なんで今日そんな上から目線なの?」Sが苛立たしげに言った。「バクシンオーもどうせ私のことバカにしてるんでしょ?」

「バカにはしていません。ただ、あなたは自分のことが世界で一番無垢で、高潔で、正常なのだと思い込みすぎている節があると思います」

「は?え、何?そんなこと思ってたの?お前もクラスのバカと同類だったんだね」

「確かに、似たり寄ったりだったかもしれません」

サクラバクシンオーは虚心にそう認めた。それからSのほうを向き直った。

「でも今は違います。だからこんなこと言ってるんです」

「あっそ、じゃあお前とはもうご飯食べないから」

Sは食べかけのサンドイッチを持ったまま立ち上がり、足早にその場を去っていった。サクラバクシンオーはSが校舎の陰に消えていくのをしばらく目で追い、それから彼女が放置していったゴミを片付けはじめた。

翌朝、サクラバクシンオーは久々にSのウマッターを覗きに行った。ふだんあれだけ罵詈雑言にまみれている彼女のアカウントが、昨晩から今朝にかけては「ムカつく」という一言だけしか投稿されていなかった。

ゆっくりでいいんです、とサクラバクシンオーは思った。ものごとは緩やかにしか解決し得ません。

なぜならこの世界は完璧とは程遠いから、と呟いてサクラバクシンオーはコンサータを1錠飲み下した。



「来年の学級委員長についてなんだが、誰かやりたい奴はいるか?」

担任がクラスメイトたちに向かって問いかけた。クラスメイトたちは皆同様に下を向き、誰も返事をしなかった。学級委員長は今や呪われた責務だった。クラスの催事を仕切るのみならず、ヘヴィーな「世話係」をも押し付けられる。凝固した沈黙がクラス全体に重苦しくのしかかった。

「ハイッ!」と元気よく返事したのはサクラバクシンオーだった。例年であれば拍手が起こるところだったが、今年は誰も何も言わなかった。

担任が唖然とした表情で「本当に大丈夫…」と言いかけ、慌てて訂正し、「本当にやってくれるのか?」と尋ねた。

「大丈夫です。お任せくださいッ!」

「じゃあ、えっと、来年もよろしく頼む。…はいみんな拍手!」

パラパラと拍手が起きた。そこに祝福のニュアンスは皆無で、驚愕と困惑だけがあった。



「はいじゃあ次の方。…ああ君ね。学級委員長のね。来年もやるんですか?」

かかりつけの精神科医がサクラバクシンオーにそう尋ねた。

「はい、やろうと思ってます」

「でもね、前にも言ったけど、責任感を得るために大きな仕事を抱え込むっていうやり方は君みたいな子にとってはけっこうリスキーなことだと思いますよ。まずは何もかもをまるっと一挙に解決できちゃうっていう世界認識から脱却すること、それこそが君の症状が快方に向かうための最も効率的な方法なんですからね」

「その点に関してはもう大丈夫です!」

「…大丈夫、というと?」

「私は長らく学級委員長という仕事を誤解しておりました。委員長はとても小さな仕事です。小さな仕事の積み重ねとしてようやく実を結ぶ仕事なのです!」

精神科医はわかったようなわからないような曖昧な表情を浮かべた。

「先生」サクラバクシンオーが尋ねた。「私は病気だと思いますか?」

精神科医はしばらく思案したあとで答えた。

「現代医学という世界の中では、そうだといえるでしょう。ただ、医学の範疇なんてのは時代によってコロコロ変わるものですからね」

「完璧なものは存在しない」サクラバクシンオーが口走った。

「そうですね、何事においても」精神科医が答えた。「だから少しずつ地道に調整していくしていくしかないんです」

清々しい心境で病院を後にしたサクラバクシンオーは、なぜだか無性に走り出したい欲求に駆られた。

信号が青に変わるのと同時に思いきり足を踏み込んだ。

斜めに歪んだ絵巻物のように景色が後方に吹っ飛んでいき、春先の心地良い匂いが鼻腔いっぱいに広がった。

夢見心地のまま四叉路に突っ込むと、曲がり角から不意に廃品回収の軽トラックが現れた。

ヤバい、と思った瞬間にはもう全てが終わっていて、彼女は雲一つない府中の蒼穹に美しい弧を描き出していた。

その朝、彼女はコンサータを服用するのをすっかり忘れていた。

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