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オッペンハイマーを見た!

ここでは、ぼくが理系学生であることを前提として感想を述べてく。長い。

ぼくはしがない学生であり、ときたま出張に駆り出される。オッペンハイマーの公開を長らく楽しみにしていたぼくだが、悲しいことに先約の出張と公開日が被っていた。帰ってから、すぐ見に行こうと思って島の貧弱な電波でチケットをゲットしたものの悪天候により欠航し、京都への帰路は断たれチケットはお釈迦に。そして、なんとか帰って来れた31日、ぼくはもう一度チケットを取りオッペンハイマーを見たのだ。しかも、IMAXで!にひひ〜(にこにこ)

オッペンハイマーは理論物理学者であったが、ぼく自身も現象を理論的に解釈するのが好きな学生であり、共感を感じるところが所々あった。「クリストファーノーラン!」というような美しい画面構成と音、時系列の難解さなど面白さも満点で、ぼくは感激しまくっていた。心の中は絶賛の嵐である。もちろん、見終わってすぐさま友人に連絡をして感想を言い合ったり、うちに帰って同じく理系学生の兄弟と解釈を話し合ったりした。同じノリで、ツイッターにも書いてやろうと思ったが、一抹の不安が過った。

ぼくは理学を志してる学生であり、世間(世間とは何かという議論はここでは置いておいて、感覚として私の相互フォロワーを指すことにする。)に対して偏った感覚を持っていたら危ないと思ったからである。

危ないとは、行動原理としてある「興味」とその結果としてある「価値」は全く別ものであるということが、世間的には区別されていないかもしれないという不安である。劇中で、オッペンハイマーが研究員に水爆(核融合を用いた爆弾)の研究をしていいよと言いつつ、水爆の開発には猛烈に反対していたけど、それに対する世間での違和感はどれほどのものなのか想像できなかった。
これが、一見逆の行動をしているように見えるなら、自分の興味に従って研究することは無罪だと主張したい。

例えば、水爆というのは、単なる核融合反応を利用した強力な爆弾を意味していて、核融合自体は宇宙で考えれば日々起こっている日常的な現象だ。太陽がメラメラと輝いているのは水素原子による核融合反応である。つまり、核融合自体に罪はない。罪があるとしてしまうと、宇宙は罪だらけになり、人間がいないところにも罪が存在し、さらには太陽という人間が生きるために必要なものにさえ罪があることになる。だから、罪があるとすれば、核融合で人を殺すことに罪があるのだと思う。

では、そのような核融合に興味を持つこと、核融合の原理を知ること、核融合を再現すること、これらは罪であると言えるだろうか。ぼくは言えないと思う。それは、やっぱり核融合には何の意味もなく、ただそこにあるだけの原理だからである。それを知りたいと思うことや知ることは誰にも止められないし、常に自由が与えられている。そして、興味に対して何かを知るためにあーだこーだすることを研究と呼ぶ。だから、いつだって研究に罪はないのだ。

なのに、その核分裂・核融合の研究がもたらす「価値」は人殺しだった。なんとも、心がめちゃくちゃになってしまいそうな話だ。ぼくの想像だけど、オッペンハイマーは、国の元で原爆の研究(開発)を進めることになったとき興味に沿って研究することとその結果として人が大勢死ぬ可能性を天秤にかけたんだろうと思う。そして、自分の政治力に自信を持って、核は抑止力として使うことにして、好きなだけ研究することにしたハッピー野郎だったのだと思う。ここは、罪と責められても仕方のないことなのかもしれないが、研究を生業として生きている人たちの興味の強さを舐めてはいけない。研究は生きる意味になり得る、そういうもんだ。だから、ハッピー野郎だとしても、その興味に従って研究したのだとしたら、ぼくは全力で応援するだろうと思う。
ぼくは日本人として失格かもしれないが、そう思うのだ。

オッペンハイマー(映画)は、人間が持つ「興味」とその結果としてある「価値」とその間に立つオッペンハイマーの苦悩が描かれていて、とても面白かった!このような、苦悩は研究意外に芸術(例えば漫画や映画などの創作物)の分野でも多くあるだろうと思うから、核という目線以外でこの映画がもっと解釈されるとぼくは楽しいなと思う。そして、ぼくが言いたいことは、どんな結果があっても、その興味は常に無罪(常に無罪の罪がある)であるということだ。

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