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映画「メタモルフォーゼの縁側」感想。

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ネタバレなし感想


「ブラック校則」「青くて痛くて脆い」に続いて河野英裕プロデューサーの手掛ける単独映画作品。今回は「青くて~」に続いて狩山監督と、脚本もドラマでは何度も組んで来られた岡田脚本と、前二作に比べてもいつもの布陣で挑む今作は、"BL"を通じて知り合う女子高生とお婆さんの交流と変化と人生を描いたハートフルな漫画が原作の物語。
制作発表よりも1年ほど前に河野Pがツイッターで原作について話題にしていた段階で、次回作となるのでは?と界隈(?)では予測されていましたが、私はその段階で原作を試し読みした所、素朴な雰囲気や絵柄の可愛さを切り口に、うららさんへの共感や雪さんの可愛さ、狭いようで入り組んでいない人物関係の読みやすさ、優しい世界にすっかり引き込まれ、電子書籍で全巻読破。更に映画化記念という事で全巻BOXも発売され、映画鑑賞後に勢いで購入してしまいました。


ひょんなことから~という言い回しがありますが、まさにこの映画の始まりはそんな事から。出会いはあっさりと描かれていく。でも、作品でも人でも何でも、出会いはひょんな事からで、いつの間にか遠くへ連れてこられてしまっているものだと思う。
うららさんにとってBL漫画もキラキラした幼馴染もビックサイトもコメダ先生も、憧れと同時に恐れや謙遜を持って、自分には踏み込めない遠い世界だと思っていた。
雪さんにとって好きな物も友人も家族すらも遠くに行ってしまったもので、あとは自分もそこへ行くのも待っているだけだと思っていた。それでも長い人生の中でもまだ見つけていなかった世界を知り、人生の謳歌が始まった。
芦田愛菜や宮本信子を始めとしたキャストの類まれな演技力、身近で確かな空気を感じる美術による裏打ちによってそれぞれの世代に共感を呼べるものになっていると思う。
子供だからといってエネルギッシュで向こう見ずなわけではなく、老人や大人だからといって嫌に達観していたり説教臭くはなく、年の差があろうとあくまで"友人"という確かで非常にニュートラルな関係性とその描写は実に現代的でもあるし、一辺倒なメッセージにもなっていなくて、映画全体の寄り添ってくれるような優しさのある雰囲気につながっている。
"好き"が"好き"を手繰り寄せていく後半の展開は派手な事などほとんどないのに、涙が出てきそうになる。ああ、皆良かった、胸を張って好きでいられて良かったんだって、自分のことのように嬉しくなるとはこの事で、私も、この作品を、スタッフを好きでいて良かったって、本当に思えました。
好きなものがないという人も、せめてこの作品を観ている間は、うららさんや雪さんやコメダ先生やつむっちやエリちゃんや光石研さんを好きになってくれたらいいなって思う。

題材として選んだのも納得な内容で、映画化への期待値も高かった。
河野P作品で原作をよく見知った作品に出会うのは初めてになりましたが、映像化としてはこれ以上ないものに仕上がっていたのではないでしょうか。
原作5巻分を2時間にまとめるにあたって、エピソードの取捨選択や多少のアレンジはありますが、どれも無理なく、最低限に映画的な作劇となっていて、違和感を覚える事はほとんどなく最後まで観られたし、実は大幅な展開の変更もあるのですが、無意味なものではなく、きっちり結びへの逆算がされていて、原作をなぞるだけでなく、そこから先へ行こうとする気概のようなものを感じられた。
演出においても、漫画でありモノローグや地の文も多い原作の通りに台詞を発させる事はなく、むしろ台詞の量はかなり控えめで、役者の表現に委ねている所が最高に映画で、ここぞという所で自然に放たれる台詞が、最高に原作もリスペクトしている今作の白眉な点であると思った。

劇伴も抑えめで、展開としても大きな起伏はなく、ともすれば地味とも言える内容ですが、今そこにありそうな、身近な作劇はサスペンスフルでなくてもそれとなく先が気になる作り。
上映時間118分は長くないか?と思ったけど、良い意味で長さを感じる事のできる、無駄のない118分だった。


ここからは、もっと具体的に内容について思ったことを書いていきますので、ネタバレ注意です。原作のネタバレも含みます。
原作との比較もそこそこにしちゃっていますが、原作映画ともに勘違いや見過ごしもあると思うので、ご容赦下さい。
解釈についてもあくまで私の考えた事ですのでご了承下さい。






ネタバレあり感想

日常と邂逅

炎天下で喪服を着て信号待ちをしている雪さんがこの映画のファーストカット。
喪服の理由として本作は先立たれた夫の法要という事で、高齢者の抱える喪失感や齢を重ねる事の行き着く先みたいなニュアンスがそれとなく込められている要素だったりする。ふうふう言いながら歩く様もいかにもな高齢者って感じ。
先立たれた夫と仏壇、切れないカボチャ、独りで食べるご飯、体操、とこれでもかと、昔はできたことが出来なくなる、あったものが失くなっていく喪失感、孤独感を打ち出していく冒頭。
この辺は原作では回想という形でふとした所でガンガン滑り込ませてきており、非常に切ない物だったりする。

こういうあからさまなお婆ちゃん描写はデフォルメされているようにも感じるが、実際にもお婆ちゃんはこんなもんだと思う。(老人ホームで働いている人間の感想なので少しは信憑性ある…ハズ)(75歳という設定にしてはちょっとおばあちゃん過ぎる気もするが)
原作ではもう少しやつれた感じがあるのに対して、本作の雪さんはもっと可愛らしくハツラツとしたしたお婆ちゃんって感じで、画的にも感情とか映画自体のテンションとか、色んな起伏がわかりやすいようにアレンジされているように感じた。
宮本信子さんによる記号的とも言えるお婆ちゃん像は完璧なもので、可愛らしくも、ふとした時に長い人生の重みみたいなものを感じさせる口調や佇まいのバランスがすごかった。

教室で一人でノートの隅っこに絵を書いては消すうららさん。進路希望も書けず、唯一仲の良い幼馴染はキラキラしていて、髪のスラっとした彼女と一緒に歩いていって、まるで別の世界に行ってしまったかのよう。
序盤、原作と同様のうららさんの抱えている鬱屈としたものと現状をこの数分間でさっと整理されて描かれていてスマートだった。
英莉ちゃんの髪型や印象は原作から大幅に変えられているものの、髪の毛という対比で原作と微妙に違う方向からのアプローチであるが、よりストレートに訴えかけ易い比較対象になっていて、黒髪で長髪というのも実写での表現として違和感がない描写になっている。その上で、自分の姿をふと比較してしまうというのは原作同様のシーンになっていて良かった。

残された時間が少なく、また、これまで過ごしてきた時間に対しての虚ろな印象すら感じてしまう高齢者と、自分の可能性がわからず、何をするにも躊躇ってしまう高校生。
そんな中で雪さんは初めて得る楽しみを見つけ、その先の楽しみ(関連作と、共有できる存在になる事)を教えてくれたうららさんに対して、優しい言葉で時には経験則を持って背中を押して、うららさんが自分自身で未来を形作る事を応援していく。
好きなものを好きでいる事に年齢は関係ないが、他人の人生に置ける存在感に年齢は関係ある事を、説教臭さ一切なしに伝えてくれる見事な構造になっていると思う。

雪さんが「君のことだけ見ていたい」と邂逅する本屋のシーンは差し込まれる光の演出が印象的で素敵。
そして二人が邂逅するシーンでは、出始めた瞬間にすごい!!と唸ってしまった芦田愛菜さんの凄まじい完成度の陰キャ演技!
変に腰が低い、細かい身振り手振り、「あっ」、キョロキョロした目、全てが見に覚えがありすぎて本当にすごい!河野P映画前二作とも陰キャが主人公で、どちらも素晴らしい演技でしたが、それらに勝るとも劣らないもので、子役時代もあまり見たことがなかった女優さんでしたが、やはり実力のある俳優さんなんだなって一瞬で引き込まれました…。
このシーン以外にも意図せず遭遇したつむっち英莉ちゃんカップルに対してお辞儀をして走って逃げていくカット、原作における「ベコッ」「シャシャシャ」を完全に再現していて愛おしいまでのアクションになっていたのが印象的。
衣装に関してもTシャツばっかの野暮ったい服装に野暮ったいリュックサックがとてもそれっぽくて、最後まで変化しないのが良かった。

初めてうららさんが市野井家へ向かうシーン。
オススメを選びきれずに(このくだりも頷きすぎる)たくさんの本を抱えて、不安そうに重い足取りで向かううららさんに対して、軽やかなステップと鼻歌でうららさんを迎える準備をしている雪さん。
という、年齢を考えると普通逆だろうと思える足取りの対比が面白く、将来があるという先行きへの不安と、残りの人生の中でこれまで感じたことのなかった楽しさを迎える期待、というそれぞれの心境の象徴が最も示されている演出だと感じた。

「君のことだけ見ていたい」

一瞬で雪さんにとって大きい存在になったのは、男女の恋愛ではなく、BLという今まで知らなかったジャンルに触れた事による衝撃が大きかったのではないかな、と読み始めのリアクションを見て思う。

劇中ではスクリーンに大写しになって、効果音を付けられる事で臨場感を覚えながら読み進める事になる劇中漫画。
かなりじっくり見せてくるので、映画のテンポを削ぐ演出だなあ、と捉えてしまっていたのですが、鑑賞しながら、これは雪さんやうららさんが読み込んでいる視点の表現であり、同時に映画の観客全員と共に、この二人を繋いだ漫画を読むという体験(の一端)を共有しているのか、と気づきました。
時間を割くだけあって劇中劇としてかなり作り込みが細かく、二人がハマった漫画として、そのまま物語の説得力を生むことになっている。
「好きなもの」を語る映画として、漫画自体を本意気レベルで制作していくというのは方法として納得はできるが、映画の制作として簡単にできる事でもないのでは?と、この映画の画期的な部分であると感じた。
各章で見せる内容がそのまま本編の象徴になっているのもわかりやすくて良い構成だと思った。

それから、初めて読んで驚く雪さんと同時に、既に読み込んでいるうららさんが微笑みながら読み進めていく姿を見せていくのがすごくニクいな、と思った。
単純に改めて読み直して、「やっぱり良い漫画だなあ」と思っている表情でも勿論あるとは思うんですが、今きっと同じものを読んで新たに(きっと)楽しんでくれている人がいる、という喜びの表情でもあると思うんですね。
雪さんのリアクションも本当に喜ばしくて、まさに「オタクが見たい、初めて読んだリアクション」のシーンになっていると思う
そんな"好き"のリンクが起こった所で、タイトルバック。素晴らしい。

羨望と嫉妬

爽やかイケメンになっても、彼女ができても変わらずうららさんに接してくれる団地の幼馴染つむっち。つむっちとは普通にタメ口で感情を出して会話できる感じがなんかすごくリアル。家に招くシーンでは適当にポテチをぶち撒けて小物を差し込んで持っていくうららさんの雑さが好き。
なにわ男子の高橋恭平さん演じるつむっちは英莉ちゃんと対するような可愛げのあるイケメンになってて、序盤~中盤にかけての爽やかにいいヤツ感からの、終盤の怖気づく可愛さがどれもハマっててやはり良いキャスティングになっていたと思う。
そんなつむっちの彼女として登場する英莉ちゃん。キャスティングの妙味については前述の通り。二人が並ぶ姿はきっちりキラキラしてて良かった。
それを物憂げに見つめたり恐れ多さを感じてしまううららさん…。
ここ、捉えようによってはつむっちの事好きなのかな?と思ってしまいそうな部分で、そう捉える事も十分できると思いますが、本編で描かれているのはあくまで、一緒に過ごしてきた幼馴染が遠くの存在になってしまったという、寂しさのような心象で、もう自分はその輪に入る事が出来なくなった(と決めつけている)羨ましさによる目線だと思うのですね。
極めつけは、つむっちの(間接的にうららさんからの)影響によってBL漫画を読み始めたら、英莉ちゃん周辺では簡単に受け入れられていて、自分が出来なかった事が簡単に出来てしまったというシーン。
ちょっと急にも感じる流れですが、うららさんの闇が深まってしまう流れとしてとても自然だし、「ずるい」という呟きと羨望から一歩先へ踏み込んでしまった事がわかる目の演技がすごいし、自分の好きなものが奪われてしまったかのような、その感覚がすごくわかる。
雪さんがBL漫画にハマった事と、なんら違いはないはずなのに、元々持っていた羨望によって嬉しさではなく、嫉妬のドス黒い感情が湧き上がる。これも"好き"によって起こる感情の一つ。
実は英莉ちゃんがBL漫画に興味を持ち、読み始めるというのは映画オリジナル。原作では英莉ちゃんはBLに興味は持たないんです。
恋愛感情であれば、もっと直接的に二人が恋愛をしている姿を見せる事で同様の流れを組んでいたはずなので、やはり焦点はそこではないと明記しているシーンだとも思ってます。うららさんが羨んでいるのはそういう所ではないのです。

その流れで描かれる、留学に関する本を買いに来た英莉ちゃんに闇が漏れ出ちゃう、うららさんのシーン。
これも原作を読み直して気づいたんですが、同様のシーンはあるものの、立場が逆転しているんです。原作においては英莉ちゃんが、つむっちと幼馴染であるうららさんに対しての複雑な感情を、少し漏らしてしまうシーンになっているんです。
この辺の流れに代表されるように、うららさんは原作に比べるとずっと闇が深いというか、泣き出すシーンもあったりしてとても表情豊かになっているんですね。これも映画的な改変ではあると思いますが、嫉妬とか諦めとか挫折とか、後ろ暗い気持ちも"好き"によって生じるものであるので、それを描くのは単なる綺麗事や優しい映画として終わらない、真摯な部分の一つであると思う。
因みに原作においては英莉ちゃんの言葉の真意が汲めず、モヤモヤしたうららさんがフラフラと雪さんの所へ行ってしまい、ターニングポイントとなるシーンへ向かっていくので、描いている事自体は同じ物になっている。

近しい人々

市野井家に帰ってくる花江さん。このシーンはつむっちがうららの部屋を尋ねるシーンと並行して描かれており、見慣れた風景(つむっちの場合は懐かしさだけど)に今までなかった物が置かれている事に気づく、近しい人達、という描写になっている。
原作において花江さんはその事を否定もしないが、直接この場で雪さんに告げなかった。これも家族の距離感として温かいなあと思ったが、
本作では直接告げるどころか、うららさんの趣味である事も知ってしまったり。その上で肯定してみせており、こういった改変は本作中では徹底して行われており、細かいシーンではあるのだが、変に茶化す事もなく過度にタブー視する事もなく、非常に良いバランスの描写になっていると思う。

家族という点ではうららさんのお母さんも出番は少ないながら、友達に近い距離感で接している優しい母親、という部分は見事に描ききっており、終盤の名言も変に硬くなくゆる~く発されるのがかえって印象的で自然に聞き取れる言葉になってて良かった。
この母親のキャスティングも河野Pの特徴として続いている部分で、「ブラック校則」の担任の教師よろしく、ミュージシャンを俳優として起用して、それを成立させているという非常に面白い取り組みである。
程よい棒読み感と身近な感じがそのまま、この母親という造形になっていて、それに合わせる周りの演者(芦田さん)の演技力も伺える。

一方で、雪さんの夫のエピソードがほとんどオミットされているのは少し寂しさを感じるものがあった。要素を絞り込むという所で泣く泣く削った部分ではあるのだろうし、前述したモノローグや回想をカットしていく手法とも噛み合っている。
上映時間を考えてもかなりギリギリまで試行錯誤した感はあるので、明確な不満とまでは行かないが、老いた人間の視点としてかなり伝わりやすい哀愁の一つであったと思うので、ちょっとだけ寂寥感。
その代わりなのか、印刷所のおじさんこと沼田さんとの関わりが強化されてるのが、原作のキャラクターの上手な運用だったと思う。それを演じるのがまたしても光石研さんという所も河野Pファンとしては面白い所だったりする。いや、本当に好きな俳優さんなんですよ。悪い役も善い役も見事にこなす本当に素晴らしい俳優さんだと思っています。
単純に役どころとしてもハマっていると思う。予告編でも聞ける「でも綺麗ですよ、オフセット印刷」という台詞も優しくて、本作を象徴する台詞の一つになっていると思う(?)
親子で通っているという形で書道教室の風景を見せ、そのシーンを象徴する二次熟語を見せていくというのも非常に映画的で、一緒に観てた観客にもウケてて楽しい演出だった。お父さんのが字が下手くそなのも可愛い。
どうでもいいけど「寂寥」って熟語の読み方を毎回忘れるし、あんまり書いた経験ないな。

モノローグ

心のモヤモヤを直接語る事が出来ず、モノローグという形で始まるうららさんの独白。
ここでも狩山監督の明暗演出が冴えわたる。笑顔でお菓子を頬張るうららさんとは裏腹にどうすれば良い?という言葉とそれを反映した画面のコントラストの変化。張り付いた笑顔とそのギャップが表現されている。
そんなモノローグに偶然答えてしまう、という形で繰り出される雪さんの回答。
「私がうららさんだったらね、もう描いてみちゃうかもしれないわ」「上手くなきゃ漫画って描いちゃダメなの?」「人って、思ってもみないふうになるものよ」
シンプルな言葉だが、雪さんだからこそ、これをすんなりと言えるんだな、というのはこの時点でも人生の長さから伺える部分であるが、後々描写されていく、雪さんのこれまでの人生や後悔も、うららさんを後押しする理由として繋がっている。
この瞬間はそこまで深く考えていない言葉だったかもしれないが、後々に色んな感情や根拠が補強されていく感じは、漫画を読み始めた事とも一致してて、やっぱり始まりはひょんな事なんだろうなと思う部分。
芦田さんもご多分に漏れず、モノローグが上手い。抑えた読み方、からの「えっ?」が絶妙。

前述した通り、原作におけるモノローグをそのまま語らせる事の殆どない本作だが、このシーンだけそのままモノローグという形でうららさんに吐露させている。
うららさんの背中を押すターニングポイントとして、あるいは、うららさんが抱えている本当の本音の部分として、この物語が一番に語りかけたい台詞への架け橋として、そのまま再現されたのかもしれない。

ビッグサイト

コミティアの会場として劇中でも君臨する東京ビッグサイト。形も独特で近接するフジテレビ(他局の映画だけどめっちゃ大映しになってたな)共々とても印象に残りやすいと思う。
そんなビッグサイトは本作では様々な象徴として色んな顔、というか、見え方を演出されていた。

一つは冬コミに参加するにあたって下見に来たうららさんの視点。駅から長い道のりを経て高架下から見上げるビッグサイトは必要以上に巨大に見える。腰を痛めた雪さんと一緒に本当に行けるだろうか?といううららさんの不安を呼び込む象徴として、その巨大感と寒空がこれでもかと迫りくる見せ方。通行人が少ないのも寂寥感が凄い。放課後の教室みたいな雰囲気。

一つはコメダ先生のパワースポットとして。
同人誌からキャリアを始めたコメダ先生の原点であり、スランプに陥ったときに立ち返る場所として、遠くから俯瞰するビッグサイトは小さく見えるが、確かにそこにあり続けている。
コメダ先生の仕事場の屋上として登場するビルだが、よくこんなロケーションを見つけたなホント。多分合成ではない筈。自信ないけど。
コメダ先生、原作より若そうなイメージだけど、独特の雰囲気や綺麗さがすごくハマっていて、憧れの漫画家像としてすごく良かった。

そして一つはこれから立ち向かう物として。
モノレールから覗けるビッグサイトは段々と大きくなっていって、本作では独りで挑むことになってしまったうららさんとしてはその大きさの変化がそのまま不安感の強さの象徴になっていたり。近いようで遠く感じた竜王の城にいよいよ挑むような感覚だと思った(?)
そして辿り着いてみれば周りはガヤガヤしていて、下見に来たときとの落差が激しく、寂寥感とも違う孤独感を味わってしまう事に。この感覚もめっちゃわかる。それこそ教室の中で一人で時間を潰している感覚。

「大事にする」

BL漫画(特にコメダ先生)を好きな女子高生が主人公の本作ではあるが、それも千差万別ある好きな物の一つに過ぎず、各々の好きな物、引いては大事な物は存在しており、本作ではそれらもしっかりと描かれていく。
身近な所ではつむっちは英莉ちゃんの事を大事にしていて、英莉ちゃんは海外留学という夢に向かって進む事を大事にしていて。
留学となれば、少なくとも距離という意味では別れる事になるにも関わらず、好きな人の目標だからと応援できるつむっちはうららさんの言う通り、"かっこいい"のだ。その気持ちを知りながらブレない英莉ちゃんも英莉ちゃんで強いしかっこいいと思う。「熱くなれるものないかな」と言いながら、大事にしたい物は見つけているのだ。

雪さんが不在の市野井家にうららさんがお邪魔するくだり。
裏口には縁側には無かった、まさに影とも言おうか、家の別の一面が広がっていた。
積み上げられた段ボール、老人ホームや墓のパンフレット。そこにあるのはわかってはいるけどあまり目にしてこなかった現実の部分。先の事、という点ではうららにとっての進路希望用紙のようなもので、部屋から物がなくなっていくというのはそのまま喪失感のメタファーになる。
原作ではここに更に、使わなくなった食器が処分する物としてまとめられていて、長年家に置いてあった食器を譲られる事でうららさんが雪さんの人生の重みを無意識に感じ取ってしまう。というエピソードになっている。
積まれた食器というのは割りとあるあるだし、その身近な感じも含めて雪さんの人生で積み上げてきたものと、それを譲る事が"継承"のメタファーとしてわかりやすくも洒落ていて、原作の中でも好きなエピソードだったのでオミットされたのは寂しさを覚えるのだが、本作はここでも見事な改変が光る。

食器の代わりに登場するのが小さい頃に貸本屋から借りパクした萬画と、出せなかったファンレター。うららさんの創作意欲を後押しする要素としてわかりやすく、少しドラマチックになり過ぎてしまうきらいはあるが、マンガという所では本作のモチーフと直接繋がるし、雪さんが漫画に偶然惹かれるという展開の補強にもなる。
しかもそれが雪さんが書道を始める切欠になった、という原作にはなかった雪さんのキャラクターの掘り下げにもなっており、非常に無駄のない改変になっていると思う。
また、うららさんの悩みは雪さんは既に通ってきた道である、と示しているが、あくまで思い出や自身の後悔を語っているだけであって、自分もそうだったから貴方もそうしなさい、という説教臭いアプローチになっていない所もポイント。
こういう所に代表されるように、雪さんはあくまで"友達"という立場を貫いており、そこに年齢や立場といった貴賤はなく、うららさんを導こうとするという気など全く無く、自分の気持ちを語るに留めている事が非常にニュートラルで、映画としてもうるさくならない絶妙な塩梅だと思う。こういう事を話せる関係であるに過ぎないのだ。
一方で後悔というのは切なさとしてもしっかり機能しており、やってみればよかった、というのは雪さん程の齢を重ねなていない人でも、つい同じ気持ちになってしまう部分ではないだろうか。

そういった周りの人々の大事にしている姿を見て、うららさんは一念発起する。
縁側で植え替え?か何か作業をしながら、うららさんの決断がカットインされていくのがありがちながら、緊張やドキドキが表現された演出になってて良かったし、二人で作業して、これから花を咲かせる、というのがそのままこれから漫画を描いて二人でコミティアに出るんだ、という始まりの象徴になっている。
「出る」と即答する雪さんも嬉しい。それぞれの意味で"今"でなければいけない決断なのだ。

描く音

メルカリで買ってYouTubeで使い方を勉強する、というのが実に現代的で良い。今はそんな情報と機会に溢れていて、世はまさに1億総クリエイター時代。
Gペンを紙に走らせる音が鉛筆ともまた違った味わいがあって面白い。
「正気か私?」という表現が台詞自体も読み方も最高。実際に制作して売るとか考えると客が満足するだろうかとか、売り物として綺麗に整えられるだろうかとか、こんな稚拙(だと思う物)なものに色んな人やお金を関わらせていいのだろうか、と全てが不安としてのしかかってくる。
Gペンで描き、トーンを貼って、水彩絵の具で着色していく・・・。今どきこれがどこまでリアルなのかは私にはわかりかねる部分ではあるのだが、母子家庭の女子高生の初挑戦、という所としては経済状況等も加味して違和感はないと思う。プロでもアナログの人は居るのだろうし。ここまで低予算なアナログである事は演出としてもコメダ先生の職場との対比として非常に活きる部分でもある。オフセット印刷するけど。

コメダ先生は液タブで描画していく。気楽に話せるアシスタントも居て、リラックスできる屋上もあって、開放感がありそうで環境としてはとても良さそうなものに見える。絵柄も勿論、初めて描くうららさんとは全く違うものになっている。
それでも試行錯誤しながらペンを走らせる音は、Gペンで紙に描く音と、ペンタブで描く音は違う響きだけど、やっている事は同じもので、どちらも力強く心地よく耳に響いていた。筆記音を聞いてゾクゾクする人としても大満足でした。

完全に余談ですが、映画公開から少し前に、そこそこ長く付き合いのある、絵描きをやっているお友達が板タブを新調してまして、使い心地とかそんな話を聞いたり、お絵描き配信も見たりしていたので、この液タブというかデジタルで描いていく描写が自分の中で中々タイムリーに感じて、お友達も、こんな感じで画面に向かっているのだろうか…と勝手に想像したりしていた。その友達は板タブだけど。

壁に描かれた咲良くんに本音を呟くうららさんのシーンもコメダ先生の「今何を考えてる?」と自身の絵に尋ねているシーンと全く呼応するものになっている。前述の環境や道具の違いはあれど、そんな悩みを抱えた時点で、実はうららさんは"作者"という同じステージに立てていると思う。
壁に咲良くんが描画されていく演出はめっちゃファンタジックで、三次元に二次元が滑り込む感じが素敵に面白く、この辺も狩山監督のVFX使いのセンスという長所が光った部分だと思う。「青くて痛くて脆い」の終盤のアニメーションも思い出した。
好きで居続ける事のしんどさもかなり共感出来るし、作中でも指折りのシーンに仕上がっていたと思う。

ちょっと気になるのは1日1ページ描き上げて、入稿まで済ませるって本当に出来るのか…?という所だけ。
雪さんはあくまで制作環境や印刷についてのサポートをしただけで、創作自体には殆ど直接関わっていないという所もポイントかなと思う。
そのさなかで昔の自分を重ね合わせて見たりするのも、世代や時代は違えど、想いみたいな物は同じという共感をそれとなく見せてきてて素晴らしいカットだし、雪さんからうららさんへの"継承"のニュアンスも含まれていると感じた。

入稿を終えたうららさんは「楽しかった」と呟いてタッタッタと走り出す。
走り出すというのはありがちな演出ではあるが、走り方という形で心象表現として違いが出されていて、鼻につくものではなかったと感じる。
大変だったけど、やっぱり終わってみると達成感とか多幸感を感じる。私もこんなダラダラした文章でも書き終えると勝手に満足感を得られる。非常に共感しちゃう部分だった。

受難

さてここまで上手く改変してまとめつつ、基本的に原作に忠実に進んできた本作でございますが、ここで大きい転換点を迎えます。
それが、雪さんが腰を痛めてコミティアに参加できない、という事態。
原作では雪さんはメチャクチャ張り切って売り子をやってます。っていうかイベント参加するのこれで二回目です。
河野P作品、原作付きのものでも忠実にやりつつ、ここぞという所で大胆な改変を行う事が多いのは知っていましたが、自分がそれを体験するのは初めてで、単純にどうなってしまうのかというハラハラと、ここに来ての大幅な改変に対しての困惑が同居して楽しくなっていました。
果たして雪さんはコミティアにたどり着けのか?!うららさんは一人で大丈夫なのか?!という映画的にわかりやすい盛り上げではありますが、それ以上に、漫画的な表現のままではわかりにくくなってしまう所をかなり手際よく整理されていたように思います。
でも、この世界線の雪さんにも、コミティア行ってほしかったなぁ…。

因みにパンフで狩山監督は「コミティアのシーンは絶対に入れたい」と語り、河野Pはイベントのトークショー(https://blnews.chil-chil.net/newsDetail/30969/)で「Jガーデンとコミティア(中略)どちらも描きたかったのですが…」と語り、大ヒット記念舞台挨拶(https://www.nikkatsu.com/report/s61xl36a897fj4pg.html)でもイベントシーンを描かない方向で考えていた事を明かしており、コロナ禍など、「参加したくてもできない」という時勢を反映させたかったという事でした。
この意図もすごくわかる所で、現代性を映すのは映画的でもあると思う。
が、それはそれで「メタモルフォーゼの縁側」としては少し寂しすぎると思うので、実際にはコミティア自体は描かれつつも、うららさんの孤独感のある視点が中心になることで、イベント自体の賑やかさと厳しさみたいな物が両方描かれて、結果的にとても良いバランスに落ち着いたのかな、と感じた。

周りがワイワイガヤガヤしている中で、孤独と焦燥を覚えて逃げ出してしまう気持ち、不在のスペースがありながらイベントは滞りなく進行している光景。物凄く見に覚えがあってグサグサ刺さってきた。まるで透明になったみたい。
そんな闇の中で現れる光、つむっち~!!柱の影に隠れるうららさんがめっちゃ可愛い。
元々つむっちは漫画好きで、彼女(英莉ちゃん)もBLにハマる→何らかの経緯でコミティアの情報誌を見る→うららさんの絵柄を知っているつむっちが気づく という見事な導線(私の想像だけど)の元で繰り広げられる、厳しい中での優しさのある展開。更にはこの時つむっちから与えられた勇気みたいなものが、後の展開にも繋がっていたり、無駄がないと思う部分。

一方で沼田さんの助けを得てなんとか現場へ向かおうとする雪さん。
いくらこの状況でも「ヘタクソ~!」とは原作の雪さんは言わなそうだなぁ…。と思いつつオーバーヒートってどないや???と思いつつ、更に偶然通りかかった人がコメダ先生だった、というのはだいぶドラマチックではあるが、原作のすれ違いとも違く、雪さんを通じてコメダ先生に読まれていたと認識する展開として非常にタイトに構成し直されていて、これ以上ない整理だと思った。

また、二人共出来る範囲でやることをやっていて、それが実を結ぶというのも、メタモルフォーゼと言えど、それこそ都合よく人間が変わってしまうという安い物語にはなっていなくて、どこに比重を置いているかがやはりブレてない本作の良いポイントだと思う。
漫画を描いただけで人見知りせずに済むようになるわけじゃないし、年老いた身体が若返るわけでもない。誰にでも売れるわけでもない。
それでも見ている人は見ていてくれて、遠くの存在だった人との繋がりを得られたりして。
雪さんがコメダ先生に本を渡した、というのも非常に重要で、この辺も原作よりも運命的で素敵な展開になっていて良かった。

メタモルフォーゼ

冒頭と同じアングルで始まる二度目の夏。しかし、雪さんの格好と目的は全く異なっていて。
その後もワンピースの柄ではしゃいで証明写真まで撮ったりして、冒頭の喪服とのこれでもかという対比になっており、ファンレターを達筆でしたためるという、あの頃出来なかった事を今、やり遂げているというのが感動的である。(達筆すぎるけど、コメダ先生読めるかな…)
雪さん乙女ですね~っていううららさんの言葉が良い。
いつもの事になった、市野井家で感想を共有する二人。
それでも、連載は最終回が近づき、雪さんも花江さんの所で行く準備を始めていて、終わり、とまでは行かないけど、一つの区切りを迎えようとしている。
本作の感想を検索して読んでいると、お年を召した人物なだけに、作中で亡くなってしまうのではないか、と心配になっていたという人が多かった。それは暗に、そういう作品が多いことを示していると思うのだが、本作はそこでも穏やかさを持っていて、娘の所で暮らすという選択によって遠くへ行くという形の別れとなっている。
老人ホームともお墓とも違っていて、雪さんなりのチャレンジでもあって、この変化も、漫画やうららさんとの出会いによってもたらされた未来のある別れになっている。
俺たちはどこででも生きていける。

「僕も君にそれをあげたい」

「せめて」の精神。
シチュエーションは違えど、原作そのまま繰り出された台詞。やはり読み方が完璧である。
考えすぎずとも、1日1ページ仕上げていけば良いんだから…と着実に仕上げていったうららさんの制作がまさにこの精神を体現しており、今日はせめてここまで、明日はせめてここまで、と繋げて行く事が大きな達成へと行き着く事になる。毎日断片的に仕上げていくというのは、連載漫画のそれと同じであったと思う。
きっとそれは仕事とか、意識的にやっている事でなくても、毎日なんとなくやっている事、ルーティンワーク、そういった事すべてそうであって、せめてせめてと生活を続けていく内に、誰しもが何かを実現しているのだろう。目指す物を明確に持って、一つ実現できたうららさんは、ようやく英莉ちゃんに声を掛ける事ができた。

対して、フラれた事もあってか弱気なつむっち。
うららさんの前でも泣いてしまうのが原作よりも可愛げがあって良い。うららさんが泣いてしまった事も繋がっている。
そんなつむっちをうららさんが引っ張って走る!劇中何度も何度も走ってきたうららさんだが、このダッシュも、それまでのものと全く違う表情を見せている。
その最中でうららさんのモノローグとして語られる、「君のことだけ見ていたい」の一節。
「君と居ると 僕は僕の形がわかる」。
原作つむっちの「慌ててる人を見てると落ち着くもんだね」という台詞もその一端であり、他人の姿を見る事で、見習いたいと思ったり、逆にああは成りたくないと感じたり、自分を客観的に見る事もできたり。
うららさんは雪さんやつむっちの姿に影響を受けて、自分がやらなくちゃいけない事、本当に"やりたい事"=「僕の形」がわかった。
「行かなくて良い」と言ってほしかったと言うつむっち。しかしうららさんはつむっちの服装を見て、つむっちが本当に"やりたい事"を感じた。
かつて自分に「僕の形」を教えてもらったように、つむっちにも自分の感じる「つむっちの形」を伝えたい。
だから、「僕も君にそれをあげたい」のだ。

ここのやりとりは、中盤の「私がうららさんだったら、もう描いちゃう」のやりとりと全く同じような構造になっていて、劇中数少ない、声でモノローグが語られる点も同じ。
そうでなくても、近しい人が海外へ旅立ってしまう、というシチュエーションまで同じだったりするので、今のうららさんとしては共感しか無いわけだ。何かを恐れて後悔してほしくない。経験も伴った純粋な願いだ。

サイン会にうららさんが遅れる(間に合うけど)のは原作通りなんだけど、本作は雪さんがコミティアに参加出来なかった事と対になってたりする。
コメダ先生から直に色々と衝撃的な事実を告げられる雪さん。リアクションが絶妙。
この一連のシーンもこれ以上ない間と演技で描かれていたと思う。少し声を震わせながら放たれる台詞が本当に劇的過ぎないけど、とても真に迫る感じで、本当に良かった。全力疾走するうららさんから繋がって、映画的にもしっかり盛り上がりになっていて良かった。
「遠くから来た人」を読んだことで勇気をもらえたというコメダ先生。雪さんはここで直接、うららさんも実は間接的に、「僕も君にそれをあげたい」を実行していたのだ。
実際に眼の前でサイン書かれたり握手したりしたら何も言えねえって感覚は経験則でめちゃくちゃわかる。話しかけられると更に縮み上がるので、ここまで話せた雪さんは凄い…。

事の顛末をうららさんに告げる雪さん。
初回鑑賞時、ここのうららさんの「えーっ!!」で劇場で笑いが起こったのがなんだかすごくほっこりした。
原作者の鶴谷先生がパンフでは原作で気に入ってるエピソードを聞かれて、「サイン会のエピソードです。(中略)まさか映画でもそのままやってくださるとは」と語っている。
実際、知らず知らずに誰かに影響を与えているというのは創作自体が持っているパワーでもあって、この一連の流れは本作としても重要な部分だと思う。
展開の変更はありつつも、しっかりこの部分は一切の変更をせずに通せるように話が作られており、それを前提した上で、うららさんも雪さんも明確な失敗と経験を経ている事で、映画的にもより劇的なシーンとして映える物となっていて、「映画」としてわかりやすく盛り上げるのではなく、「映画メタモルフォーゼの縁側」としてどう盛り上げていくのか、本当に計算され尽くされていたと思う。

土砂降りの中、市野井家へ帰ってきて、縁側で告げる「今日は完ぺきな一日でした」。
市野井家までタクシーが来た時点で「完ぺきなシーンでした!!」と心中唸っていました。

「遠くから来た人」

スクリーンにフルサイズで描かれる「遠くから来た人」
これは原作ファンにとってもサプライズであったのではないだろうか。
カレーや縁側といった、うららさんの経験がそのまま作中に織り込まれていて、それらはうららさん自身の感じた優しさや幸福のメタファーであり、作中の二人にも自身と同様に豊かに生きてほしい、優しい世界であってほしいという祈りでもある。
うららさんは原作において「君のことだけ見ていたい」の最終回を読んで「どうしてこんなに どこまでも優しいものを作ったの」と述べているが、このうららさんの描いた漫画こそ「どこまでも優しいもの」であり、それを読んだからこそ、コメダ先生は「どこまでも優しい」最終回を描いたのではないかと思った。
因みに、カレーとか縁側は原作内の「遠くから来た人」では描かれていない部分であり、逆に映画においては「どうしてこんなに~」という台詞はオミットされているので、筆者の中では勝手に相互補完という事になってます。

たまに「同人誌を二次創作元(作者)に見られるのは良い事なのか?」という意見を見かけますが、この「遠くから来た人」は「君のことだけ見ていたい」の二次創作ではなく、オリジナルの一次創作なので、特に問題は無いように思われます。
単純に憧れてる人に読まれる恥ずかしさはあるかもしれないが、ハッキリと本人から好評も得ていたりする。

縁側

主が去った後の家。漫画を送ると、電話で笑顔で会話するうららさんと雪さん。そこに別れの後ろ暗さは無く、あえて別れのシーンを描かなかったのも、ここにその暗さは必要ないという意図があるのかと思う。
そこにあるのはまだまだ続く友情と、漫画という楽しみに満ちた先の人生。

エンドロールは二人の歌唱によるT字路sの「これさえあれば」を芦田さんと宮本さんが歌うカバーをバックに縁側の長回し、というか、カメラ回してるだけの映像。
原曲は拳のあるボーカルが特徴的なブルースで、これも歌が力強く伝えられるようで好きな曲になりましたが、二人が歌うとなんとも牧歌的でほんわかした雰囲気になっていて、二人共歌上手いし、本当の本当に最高の余韻が残るエンディングになっていました。


異常に肥大化した文章にお付き合い頂いてありがとうございました。


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