「だが、情熱はある」第3話感想。


伝わらないこと

この回は山里は今までの気持ち悪さとは別ベクトルで暴走していく。
見せかけのネタ帳によるコンビ勧誘に始まり、揚げ足とも言えない相手の悪いところを探してツッコミを入れていく。
関西人じゃないと~という物言いもすごく差別的だし、それこそ出身地や言葉遣いという見た目だけで判断されているような気がして、その環境も、山里が見せかけの才能や情熱を見せる事から始めさせてしまう要因になっていたと思う。
この時宮崎くんに掛けた言葉「君となら面白い事ができそうな気がする」というのも本心ではない、と言ったら言い過ぎだろうけど、とにかくコンビを結成する、という目的の為の手段に過ぎなかったように思える。

ただ、ヘッドリミットのネタを見ている時の、周りが素直に笑っている中で一人、鬼面の表情を見せている、という感覚はなんか、わかる。
自分の方がもっとスゴい事をやってやれるハズなんだ…。という尊大さ以外にも、なんで皆ヘラヘラしてられるんだろう、ライバルが評価されているようなものじゃないか、という良く言えば真面目すぎる、悪く言えば焦り、またはやっぱり嫉妬の感情が含まれていると思う。自分にもそういう尊大な感情は、ある。

実態はせっかく組めた相方に、同期なのにも関わらずまるで自分が講師であるかのようにひたすら相手を指摘し続けるパワハラ行為。
自分が出来ないハズがない、では誰が出来ないのか…という実態の伴わない空っぽな自信を、どうにか裏付ける為に相手が悪い、相手がわかってくれない。と、自分を棚上げする。これも、正直ものすごい身に覚えがある。
山里も同じかはわからないけど、これのタチが悪い所は本人の中では色々と具体的な根拠があって自分が正しいと信じてしまえる、という所と、相手の方が色々と弱く、主導権を握る事が出来てしまう関係性である事。そして侍パンチの場合は熱量や感情にすれ違いがある事。

公園で初めてネタ合わせをしたシーンで山里は宮崎くんの「楽しい」を理解出来なかったが、それは裏を返せば宮崎くんも山里の情熱を理解していなかった、という事。
山里が宮崎くんに要求した事はおそらくどれも自分が本気になれば出来てしまう事。ヘッドリミットの出待ちや彼女の存在も、モテない彼にとっては嫉妬という原動力でしかないから、それを失ってでも賭けるのが本気だ、と本気で思っていたのだろう。
…しかし明日までにビデオ何十本も見ろとか、デートもバイトも断れとか、そんな要求は常軌を逸している。理解されなくて当然と言うか、完全に山里が悪いし、ツッコミの練習だの滑舌だの、ここまで山里が宮崎くんを追い込んだ行為というのはおそらく何の意味もなく、中身の伴っていない追い込みだった。

解散後、とにかくヘッドリミットを落としたくて暗躍するシーンは、河野P作品で嫌なキャラが嫌な事する時恒例の張り紙を含んでて笑った。そんなのはただの紙切れだ。
自分がヘッドリミットと同じ場所に立ってて、選ばれたいと願うような所を、テレビで見てて落とされる事を切に願っているという画もメチャクチャ面白い。

ヘッドリミットはキングコングが元ネタらしく、そう言われてみると特徴を再現してるような気がする。NSC同期の中にも色んな芸人を再現した人が居るのかもしれないが、あまり詳しくないので…。
モデルはあるけど、実名を使っていくのは主人公とその親しい人間のみ、というのはドラマとしてのリアリティラインで良いと思う。

NSCの風景はおそらく当時の実際に近いものなんだと思うけど、立派な入学式と卒業式があったり、学びとしてもダンスとか色々取り入れてたりして、思ってたよりしっかり学校学校してる所なんだなと思った。

伝わること

若林と春日のルーティン。
この、本当はやらなければならない事があるのにやらずにいて、なんとなく時間が経っていく感覚、死ぬほどわかってしまう。テスト前に急に掃除し始めるような感覚だと思う。
山里と違ってNSCという毎日通う場所を持たないナイスミドルはとにかく自分で動かなければならない。惰性で通っていても良い学生時代とは違う。惰性で就職活動しててもマジで受からないんだよな(経験談)

若林がキャッチボールをしている公園のまさにすぐそこで、電話に向かって頭を下げる父親の姿。
会社を9回(だっけ?)も辞めて、家では大口を叩いて、喧嘩になれば車に籠もる。情けないようにも見えるし実際情けないと思うが、外でのこういう姿というのは若林青年には社会人の象徴に見えたのではないだろうか。
そんな辛さというものが、きっと無意識に伝わってしまったんだと思う。

山里がお笑いへの情熱を空回りさせ続けている事と対照的に全然お笑いに関する事柄がない。クレープ屋でのネタ見せはあまり勉強になっているように見えない。
ではこのくだりはドラマとして一体なんだったのかというと……。改めてコンビ結成への道のりとなるわけだ。
無茶苦茶な賭けではあったが、(一般企業への)就職という現実に対して、全く無駄な事のように思えた日々のルーティンの集大成をぶつけて、見事に勝ってしまう若林。
ここで勝ったのは春日という唯一の相方を失わなかっただけではなく、自分自身が社会からの逃げとして芸人を選ぶのではなく、芸人として挑戦して生きていく、という覚悟を改めて決断する意味合いがあり、無駄な事にも重要な意味を持たせてしまう、冒頭で家族が語っていた「考えすぎてしまう所がある」を体現するようなエピソード。
ここで頑張りすぎて気絶してしまうのも現在の失神と直接繋がっていて、この出来事は見た目以上にオードリーというコンビの核心の一つでもあると思う。若林という人間のアイディンティティというか、変わらない習性のようなものも含んでいる。
がむしゃらに泳ぎ続ける若林と、それを眺めて待っている春日というのも、なんかめっちゃコンビの関係性のメタファーじみてる。

意味を幾らでも持たせる事は出来たはずなのに、全く無意味な時間を積み上げてしまった挙げ句に解散した山里、
無駄だと思える事全てに意味を持たせて再スタートを切った若林。
しかしこの回は、そんな最悪とマシな日の錯綜では終わってくれない。

兆し

新たな相方・和男くん。宮崎くんの時と違うのは第三者が引き合わせてくれたという事と、革ジャンというルックスの良さと、それに反するようなコチャックダンスとかいうネタを持って、山里が可能性を心から感じられた事。
そして、山里自身も二度目のコンビという所でしっかり反省が出来ている。
ここ頑張る過程が本当にひたむきって言葉がピッタリで、ギターの優しい音色のサントラも相まって物凄く微笑ましく見られた。清水尋也も好きな俳優で、こんなただの好青年役ってあまりないと思うので。
スカーフの原点がここにあったというのは全く知らなくて、今の山里にも継承されているのかと思うととても興味深い。
…そう、"今の"山里は和男くんとコンビを組んでいない。今微笑ましく見られても、結末を知っている、という怖さと切なさ。歴史を知っている大河ドラマみたいだ。
そんな事を思っている間に、山里には再び嫉妬の炎が着き、同時に”今の”相方との邂逅が描かれる。
改めてこのドラマは色んな面を持っていると思う。

ひとまず卒業公演を成功させた山里。しかし親は一般企業への就職を勧めてくる。
卒業すれば気が晴れただろう、という、何ともいえない親心。このまま芸人として食っていけるなんて、思ってもいない。親ですら山里の情熱は伝わっていない。

何者

バイトに落ちまくる若林。春日は「そんなに気を使わなくても受かりますよ」と言っていたが、ここに落ちてる男が居るんだよ…。
部屋が借りられない若林。収入がなければ部屋を借りることもできない。保証人として結局家族を頼らなければならない。そしてむつみ荘への布石。
家出が出来ない若林。本気なら野宿でも~とおばあちゃんが珍しく強い言葉を使ってくる始末。本気さが伝わらない。
面接に受かって芸人という肩書を得たものの、どんどん浮き彫りになっていく、間違いなく自分は親父の子供であるという事と、まるで社会に存在を否定されているかのような気分。まるで透明になったみたい。

芸人といえば下積み時代にこんなものを食べて日々をしのいでたとかそういう貧乏エピソードとか、バイトしながら頑張って活動してる話をたくさん聞く。バイトの方が収入があるという芸人さんもきっと多いのだろう。
何を持って自分は芸人である、と宣言できるのか。芸人である、と宣言しても収入がなければ社会人として認められない。情熱だけでは如何ともし難い現実。
お金の価値というお話は河野Pドラマでもちょくちょく出てくる要素であるが、このドラマではよりリアルな距離感でもって伝わってくる気がした。

それでもお客さんが二人来るナイスミドル。
黙っている、というのは聞いてくれている証。自分が芸人である事を否定されない、唯一の場所。

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