迷い否定しながら紡いでいく想い

いつも迷うことが
あります。

それは古事記のこと。

古事記というお話は
本居宣長先生から始まり
たくさんの高名な方々が
研究し読み解いて来た
歴史を持っています。

そうした
積み重ねのおかげで

現代において
何千年という
時を超え

わたくし達が
超古代の人たちの
声を聞けるように
仕上がっているのです。

そうした先人達の
積み重ねによって
今わたくし達が
読んでいる古事記を

正統派とするならば

わたくしが独自に
読み解いている古事記は
異端として見えるのかも
しれません。

そんな古事記を
伝えて良いものかと
いつも迷うのです。

しかし
わたくしの信じる

古事記は美しく

そして
古事記に紡がれた思いは
感動を与えてくださいます。

少なくとも
わたくしは
そう感じています。

だから例え
異端と思われても

古事記の持つ
美しさと感動を

次の世代に 
つないで行きたいと
願っているのです。

なぜなら
それが古事記序文に書かれた
大野安麻呂先生の想いである

「稽古照今」だと
感じるからです。

美しさと感動は
人の心を変え
時代を動かす力を
持っています。

それが何千年もの
トキを超えて
今もなお息づく

フルコトフミの
チカラなのでは
ないでしょうか。

そのフミに書かれた物語は

人の持つ思いやりであったり
優しさなどの生きる美しさ。

そして
困難に立ち向かうチカラであったり
乗り越え分かち合ったときの感動。

それらが物語として
書き記されているのです。

古事記は
文字と言う道具を使い
時間(トキ)と空間(トコロ)を超えて

奇蹟の扉を開いてくれます。

きっと大野安麻呂先生は
わたくし達の可能性を信じて

奇蹟を託して
くださったのかも
しれません。

もし、そうであるならば
わたくしは異端であることを
恐れずに

新たな視点で
新たな解釈を
伝え続けていきたいと
思っています。

大野安麻呂先生が
わたくし達に託したことは

正しく思いを受け継ぎ
読み解くことではない
のかもしれません。

もしかすると
それまでの積み重ねすら疑いながら
新しい事実を見つけていこうとする
その姿勢を託されたのでは
ないでしょうか。

つまり
自らが間違っているかも
しれないと言う可能性を
受け入れる姿勢を保ちながら

それでも真理を求めるために
前に進むと言う姿勢。

古事記を読んだ人に
その姿勢を託したのだと
わたくしは思っています。

もちろん
わたくしの解釈する古事記を
異端だと思ってもいいし
批判があってもよいでしょう。

なぜなら
他者が起こす捩れは

より新たな視点を生み出し
現状を前に進ませる
希望となるのですから。

そうやって
紡がれた中で
生まれた希望を
次の世代につないでいく。

それが
わたくしが古事記を伝える
目的なのです。

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